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十一時。暗がりにようやく変化が訪れた。
今、倉科は依子の家の南方にいる。恐らくカーテンを介しているからだろう。光量を暗く落としながらも、唯一明かりが灯っている部屋に依子がいるはずだ。その部屋から東西に向けて、さらに暗く僅かな光の帯が伸びた。依子が廊下の明かりを灯したのだろうと推測される。さらに東側の一点に比較的明るい光が漏れた。玄関の明かりと街灯が点けられたのだ。
周囲には弘前西署の刑事たちが配置されているはずだ。やがて包囲網が狭められ、川村貞一宅で島崎竜司の身柄が拘束されるのだろう。そのあとは司法に委ねるだけだ。
そのとき、遠く微かに、何かが砕けるような乾いた破裂音が起こった。その音が銃声であることを、倉科は疑わなかった。
そして間を置かずにもうひとつ、同じ音が響いた。
倉科がいる位置から俯瞰しているからこそ分かるもの。それは地形だ。何年経っても消えない習慣がある。この場所に車を停めた直後から、川村貞一の家から逃げ出してくる人間を確保できるルートを瞬間的に判断していた。人が、目の前に次々と展開される暗がりの中に必死の思いで分け入るとしたら、知らず知らずのうちに少しでも低い方に向かって走るものだ。その出口を予想して近づけば、逃亡者と接触する確率は格段に上がる。近づくにつれ足音が聞こえ息遣いが伝わり、ついには行く手を塞ぐことが出来るだろう。
倉科は斜面を駆け下り、西に面した山の裾に向かって走った。島崎が雑木林の奥に山裾の道を見つければ、そのルートを逃げるために体が動くはずだ。倉科の位置からならば、その道を閉じることが出来る。
やがて、倉科はその道に出た。
島崎は銃を持っている。今のところ刑事が撃たれた可能性は二人にとどまっている。ならば少なくとも四、五人は島崎の後を追っているはずだ。この位置に島崎が姿を現す前に身柄を確保される確率が高い。しかし、倉科はいざというときのために呼吸を整えた。
パン。先ほどの破裂音と同質だが、近い。三発目の銃声に、倉科の思考は次々と新たな可能性を模索した。
パン。四つの銃声によって捜査員の中に負傷者が四人出たとすれば、格段に島崎を取り逃がす確率が上がる。
パン。五つ目の銃声はさらに近づいている。さすがにこれ以上の暴挙は許されない。倉科は手近に落ちていた、適当な長さの木の枝を拾い上げた。そして、北に向かって分け入った。
ほどなくして半ば氷と化した雪を踏み分け、その下にある湿った落ち葉を蹴散らす、くぐもった音が倉科の耳に届いた。
パン。銃声が近い。倉科はその場にしゃがみ込んで身を隠した。
大地の裏側にあるために、太陽の光こそ見えない。しかし、その光を受けた月が金色に輝いて倉科の足元を照らしだしている。月光の中に島崎の姿をとらえるのはもうすぐだ。
島崎が所持している銃の種類が分からない。いざというときのために準備しているものならば、弾倉をいっぱいにしているはずだ。銃声の数からして、弾はまだ十分に残されている。まずは拳銃の脅威を取り除く必要がある。倉科はその排除を最優先に意識した。
幾筋にも伸びる木々の間から、黒い影がふと湧き上がった。タイミングを見計らって立ち上がり、倉科は走り来る影の横から手にした木の枝を振り下ろした。ひゅんと、枝は空を切り裂いた。そこから確かな手応えが伝わった直後、倉科は島崎の手から何か相当な重みのあるものが取り落されたのを確信した。倉科は島崎の前に立ちふさがった。確かなダメージを受けながらも、まだ右手が機能しているのだろう。島崎が木の枝に打ち据えられた右手を、今度はジャケットの内側に差し入れた。次に現れた島崎の右手は、血にまみれて黒く見えた。そこに、ナイフが握られている。島崎がゆっくりと顔を上げた。その目が、倉科を見据える。次の瞬間、島崎はナイフに強められた右腕をグンと突き出した。その尖端が、木々の間から差し込んだ月光の断片を受けて閃光を放った。
『永遠の花嫁』第五章「終雪」A15
『永遠の花嫁』