『永遠の花嫁』第五章「終雪」A11

『永遠の花嫁』

「行きましょう」
 倉科は玄関へと向かい、車のキーを下足箱の上に置かれた篭の中から取り上げた。靴を履き、玄関に下りる。自分の背中につき従っている桜田の気配を感じながら、倉科は玄関の扉を開いた。車のロックをリモートコントロールで解除し、カーポートに向かった。車にたどり着き、桜田のために助手席のドアを開いた。桜田が倉科の横をすり抜け、その身をシートに収めた。倉科は車の後方から回り込み、運転席に腰を落ち着けた。
 桜田がここまで乗ってきたレンタカーが、家の前の公道に小さな黒い影となってたたずんでいる。「忘れないうちに。レンタカーのキーを預かります。あとで何とかしますから」
 桜田はショルダーバッグからキーをゆっくりと取り出して、差し出された倉科の手に預けた。倉科はそれをジャケットのポケットに入れた。代わりに自分の車のキーを同じポケットから取り出し、イグニッションに差し入れて回した。エンジンが低くうなる。ブレーキペダルから足を上げ、アクセルを踏む。車はゆるゆると路上に滑り出し、少しずつ速度を増していく。市道に出て、さらにアクセルを踏む足に力を入れる。ふと、助手席に座る桜田を見やった。そこにはフロントガラスにぼんやりと視線を固定した桜田がいた。その姿はあまりにも虚ろだ。倉科は声をかけずにはいられなかった。
「どうしました?」
 桜田の反応がない。倉科がもう一度問いかけようと口を開きかけたそのとき、桜田の小さな唇が動いた。
「いつか、こんなことがありませんでしたか?」
 その姿には、静かな混乱があった。
「いえ、ありません」
 今の二人には、多くの言葉が必要なのではない。このとき、倉科がしなければならなかったのは、現実の世界に桜田を繋ぎ留めておくことだけだ。しかし、桜田に倉科の声は届かない。ゆらゆらと湖底に沈みゆく木の葉のように、車の揺れに呆然と体を預けている。
 倉科は出発したばかりで、すぐに車を路肩に停めた。左手で助手席に座る桜田の右肩をつかみ、その体を力いっぱいに揺さぶった。桜田の頭がぐらぐらと左右に揺れ動く。
「すみません。何だか急に頭がぼんやりして」
 何度目かの揺さぶりに、桜田がようやくまともな反応を見せた。
「しっかりしろ。頭痛は?」
 つい強い口調になってしまう。
「いえ、頭痛というほどのものではないんですが。でも、やはりちょっと痛みます」
 家を出たばかりのときよりも少しはましなようだが、まだ額に手を当てている。
 倉科はシートベルトを外し、助手席に上半身を乗り出した。手をのばし、桜田の額に当てた。
「私の家を出てからのこと、覚えていますか?」
 桜田は、さも不思議がるような視線を倉科の顔に結んだ。
「なぜ、そんなことを聞くんですか?」
 倉科は自分の思い過ごしに、ほっと胸をなでおろした。
「いえ、覚えていてくれればそれでいいんです」
「もちろん、覚えています。それよりも、山脇が待っています」
 先を急げということなのだろう。倉科はシートベルトを締め直し、ウィンカーを上げて再び市道に車を戻した。
「ときどき、今のように痛むことが?」
 倉科のなかに起こった疑念はまだ消えていない。
 桜田は倉科に一瞥を投げた。言っていいものかどうか、その視線には困惑があった。
「言ってみてください。気になります」
 桜田は意を決したように、頷いた。

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