二〇〇六年、夏。藤本との信頼関係を築くことができたからか、クリニックに通いはじめて一年が過ぎたこのころから、椿はようやく様々なことを話すようになった。それでも、自分自身のことについて話すことはほとんどなかった。
椿は自身のことを話す代わりに、自分を取り巻く状況や環境について事細かに藤本に話して聞かせていた。
青森を出た真理亜は東京でホステス、今どきはキャストというのだろうか、接待業を始めた。ただ単にその職によって生活を成り立たせていたというばかりではない。勤めはじめてから二ヵ月もすると、持ち前の美貌と狡賢くさえある明晰な頭脳をもって店の中でもトップクラスの収益を上げるようになった。真理亜を贔屓にする客が日ごとに増えた。引きも切らせずテーブルの間を駆け巡っては、自分を目当てに来店した客の接待に追われた。その人気ぶりがさらに客を呼んだ。評判のホステスがどんなものか、物見遊山に訪れた客をがっちりと捕まえた。そんな客たちに次の来店をうまく促すことによって堅い足場を築いた。
しかし、私生活はむしろ寒々としていた。一緒に青森を出てきた堀内恵一は、椿の父親でもありながら新しい女を作って行方をくらませた。入籍すらしていなかった真理亜と恵一との関係は、男女の別れを容易にさせる、望ましくない力を発揮したと言える。
真理亜は一人で椿を育てる決意をした。ホステスによる収入だけでは地に足のついた確固たる生活基盤を築いたとは言えなかった。自分と椿とを庇護してくれるような男を探し求めた。ほどなくして、真理亜はある男と出会う。男は、真理亜と椿の二人に住む場所と生きていく糧を与えた。椿の口から藤本医師に伝えられたその男に名前はない。椿はタヌキと表現したという。
「あの頃も今と同じように、この診察室にはぬいぐるみをいくつも置いていました」
椿が男を初めてタヌキと表現したとき、彼女の視線がタヌキのぬいぐるみに向けられていたことを覚えている、そう藤本は話した。
タヌキは当時衆議院議員を務めていた。戦前、各地の名望家が政治に乗り出した時代がある。タヌキはそんな一族の流れを汲んでいた。そのあまりにも盤石な地位を守り続けることに、彼は倦んでいた。
タヌキの長男であり、都議会議員を務めていた男を、椿はゴリラと呼んだ。これはタヌキに対する便宜的な呼び名ではない。その男の顔がいかつく、横長であったことから、椿自身がそう命名した。ゴリラも真理亜とタヌキの出会いの場面からそこにいた。
真理亜がホステスとして働く店にタヌキとゴリラが初めて現われたのは、経済団体の接待を受けてのことだった。当時、何れかの大臣のポストにあてがわれることを準備していたタヌキにとって、経済団体との繋がりは欠かせないものだった。そしてゴリラもまた、衆議院議員になるための自らの足場作りに余念がなかった。親子が揃って店を訪れた際、真理亜を含む数名のホステスが席に着いた。
この男は私を欲している。
真理亜はタヌキの胸の内をすぐに見抜いた。
五十代半ばのオスが放つ欲望は、その道に長じた真理亜の目には色がついた景色のように可視的だった。タヌキは真理亜の太腿に自分の熱く湿った手を置き、肩を抱き、髪に触れた。 真理亜は、油断すればすぐに覆いかぶさらんばかりに注がれるタヌキの想いをうまく昂ぶらせたりかわしたりしながら、必要な情報を収集した。ときには本人の口から、ときには第三者との会話の端々から。タヌキが資産に富んだ古参の議員であること。支持基盤が安定し、この後の再選も容易であること。収入に占める自由になる金の額も十分であること。あとはタヌキが押してくる力を利用して、うまくその懐に転がりこめばいい。そう思えた。
『永遠の花嫁』第四章「牡丹雪」A1
『永遠の花嫁』