二人静12

小説

 月が出ていた。その光が柔らかく清美の体を包み込んだ。
 昼間の熱を削ぎ落した風が、火照った頬をそっと撫でた。
 街はもう眠りについていた。ところどころに灯が点り、どこからともなく人の声が聞こえてくるが、どれもまばらだ。時折車が走る音が届くものの、その姿は見えない。
 歩いているうちに少しずつ気持ちが落ち着いた。ここ数日間の自分の行動と気持ちがどんなものだったのか、次第に整理がついてくる。
 おそらく風邪による熱のためだったのだろう。求めていた思いが強かったせいかもしれない。朦朧もうろうとした意識のなかで、麗は清美をお母さんと呼んだ。あの瞬間に清美の胸を突いた痛みが、今もまだ溶けずに残っている。
 やがて目の前にビジネスホテルが見えてくる。あと数時間は煙草の匂いが染みついたあの部屋で休むことができる。気が向けば、もう一泊したってかまわない。いや、もっと泊を重ねることだってできる。時間はたっぷりと、予算はそれなりにある。身の振り方をじっくりと考えることにしよう。
 ホテルに入り、フロントでルームキーを預かる。エレベーターに乗って部屋のあるフロアへと降り立つ。カーペットが敷き詰められた廊下を歩く。部屋の前に立ち、鍵を解いてドアを押し開いた。窓は開け放したままだ。外気が程よく部屋の空気の熱を、匂いを和らげてくれていた。清美は部屋を暗くしたまま、前日の夕方に一度横たわったベッドに体を投げ出した。疲れがわだかまっている。何かに体重を預けることができる安堵を体が欲していた。溶け出した疲労が、シーツにじわりとにじみ出ていくのが分かる。
 どれくらいそうしていただろうか。眠っていたわけではないのに、時間だけは確実に過ぎ去っていた。閉じていた目を開いて窓を見上げると、切り取られた空が紫がかって見える。夜明けが近づいていた。
 清美は起き上がり、部屋のガラス窓とカーテンを閉めた。明かりを灯し、化粧品の入ったポーチを手に洗面所にむかった。ゆっくりと時間をかけて化粧を落とした。ユニットバスだ。一旦カランに湯が出るように蛇口をひねり、温度を少し熱めに調節してからシャワーへと切り替えた。その場で服を脱いだ。浴槽に立ち、シャワーカーテンを引いた。そして、温水の雨に打たれた。
 いつもより熱めにしてよかったのだと思う。寒い思いをしたわけでもないのに凍え固まった何かが、少しずつ少しずつ溶け出していく。その弛緩の先に、涙が溢れ出した。
 分らない。何が自分にそんな変化をもたらしているのかさえ。分からないまま、清美はとめどなく溢れる涙をシャワーで流し続けた。
 一瞬とはいえ、私は麗の母親になろうとした。
 自分の欲の深さに驚いた。
 ただ平穏に生きていくことができればそれでいいと思っていた。その希望が満たされて六年が経った。おそらく慣れてしまったのだ。新しい願望に侵されそうになっていた自分に気がつくことができなかった。あろうことか、自分が人の役に立てると思い込んでしまっていた。どんな形であの二人に影響を与えてしまうかも分からないというのに。
 これでよかったのだ。二人の前に姿を現してしまった以上、最善とはいかなくなってしまったものの、最悪の事態を招かずに済んだ。せめてそう思うことだけでも自分に許してもいいのではないか。
 清美はシャワーを止め、バスタオルを引き寄せて体と髪をふいた。そうしながら、裸のまま浴室を出た。そしてふと、姿見の前に立った。鏡のなかに全身を映し、自分の姿を眺めた。ここ数年間に限って言えば、それは清美にとって初めての行為だった。事件を起こしたあの日から、体のどこかにその「しるし」が刻み込まれているように思えてならなかった。それを見つけてしまうのが怖くて、鏡に自分の体を映すことから逃げてきた。しかし今となっては、むしろ「印」を見つけてしまいたかった。諦める理由が欲しかった。そんな私が、あの二人の間に分け入っていいはずがない。
「これでよかった」
 一人、そう声に出してみる。さあ、もうひと眠りしよう。清美はドライヤーで髪を乾かした。備え付けの浴衣の袖に手を通し、部屋の明かりを消した。シーツと掛布団の間に体を横たえ、柔らかな枕に頭を埋めた。眼を閉じてしばらくすると、浅い眠りが訪れた。


 

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