桜田は、弘前市内の病院の精神科に入院している葉子のもとを訪ね、彼女から聞き知った内容を倉科に伝えた。熱いアイロンを押しつけられた火傷の傷は多数。骨折した個所は繋ぎ目が盛り上がるものだが、レントゲン写真を撮れば肋骨に複数個所その痕跡が認められる。左手の薬指は手の甲の側に強引に折られたまま十分な手当てが受けられなかったため、力を込めて握ることができない。それこそ隙間がないほどに何らかの傷跡が体の表面を埋め尽くしている。
「中学生のころに、達樹の方から父親と距離を取るようになりました。そのためか、私は達樹の苦しみに少しも気がついてやることができませんでした」
石のように固い起伏をともなった倉科の両手が、桜田の前に組み合わされている。その手は、注意深く見なければ気がつかないほど、小刻みに震えていた。
「何の罪もない小さな体に、そんな仕打ちをするなんて。ね」
倉科は静かな怒りを抱えている。桜田はこの男の胸の内に、赤い焔が立ったのを見たような気がした。つい先刻、自分の背中に走った悪寒を、桜田はその炎で溶かし去った。
桜田はそれとなく自分の腕の時計を見た。倉科を引き止めておくことができるのも、あとわずかな時間だけだ。
「そろそろ時間ですね。今日はお忙しいところお時間をいただきまして、どうもありがとうございました」
倉科は口元を歪めるようにして笑った。そして自分の腕の時計を見ながら言った。
「私が知っていることをお話しするはずが、かえってたくさんのことを教えていただきました。ありがとうとお礼を言うのも変でしょうけれど」
桜田も倉科を真似て、口を歪めて笑った。
三人がほぼ同時に椅子を立った。桜田が伝票を掴んだが、倉科は自分の分を払うと主張した。桜田は倉科の申し出を固辞した。
「いえ、私が。お会いしたかったのは我々の方なので」
「では、ご馳走になります」
桜田は前を歩くように倉科を促し、山脇をその後ろにつけた。会計を済ませ、二人に追いついた。
「今日はお酒も入るんでしょうね。明日お帰りになるんですか?」
「はい。明日の午後の新幹線で帰ります」
桜田はふと違和感を覚えた。そして訊いた。
「午前中は何を?」
「人に会おうと思っています。古い友人に」
明日は土曜日だ。明るい時間帯に友人に会うと言われても何もおかしくはない。しかし、四十を目前にした男が、そんな時間に友人と会って何をしようというのか。桜田にはその光景をうまく想像することができなかった。相手が家族をもっているのならなおのこと、午前中よりも夜の方が会いやすいのではないか。古い友人という言い回しにも、何か作り物めいたいかがわしさがある。
倉科の出身地は神奈川だ。二十三区内にいくら知り合いがいてもおかしくはない。それならば友達とでも言えばいい。しかし古い友人となると、性別も年齢の上下も、親交の深さも分からない。
自分の中に、倉科の言動に何らかの意味をもたせようとする意識が働いているのかもしれない。しかし、考え過ぎなのではないかと思ってみようとしても、もやもやと形にもならないわだかまりが胸につかえてならない。
「それでは、失礼します」
ホテルの入り口で倉科が頭を下げた。
「今日はどうもありがとうございました」
桜田の視界の中で、倉科の背中が遠ざかっていく。その体の動きを感知して、自動ドアの重いガラス戸が引き開けられる。そして、建物が作る影の中に、倉科の背中が消えていった。
『永遠の花嫁』第三章「八朔の雪」B5
『永遠の花嫁』