◆
長野に向かう旅程は決して楽なものではない。依子の監視にすぐにでも戻らなければならないという思いは、桜田の焦燥を煽った。青森市郊外、浪岡の山中にある青森空港の駐車場で車を降り、空の便を利用する。一旦札幌に向かってから信州まつもと空港に降り立ち、そこからバスで松本に出た後、在来線を利用して白馬に向かう。それが最も早く桜田を目的地に運ぶ手段だとはいえ、旅程にはどうしても一泊二日を要する。翌日にはH町に戻れるといっても、すっかり日が暮れた時刻になる。
H町を出て、DHC8Q400型機を降りるまで二時間半。今や新千歳空港の構内を、信州まつもと空港に向かう便のロビーに向かって歩いているという事実が信じ難い。連絡時間は三十分しかないが、一旦立ち止まって携帯電話を開いた。一連の事件に関係したものでありながら本来的な捜査対象から離れ、しかもパートナーである山脇を青森に置いたまま単独行動をとることについて、本部の了承を得なければならない。しかし本当に承認を得なければならないのは行動を起こす前だ。もうすでに長野に向かって動き始めた桜田の行いは、相手に決定権を与えない、単なる報告に過ぎない。それは組織の内部にいる人間にとってあってはならないはずの手順だ。
「まあいい。好きにしてみろ」
逸脱を前提とした行動の報告を受け、捜査主任である佐藤は当然のように否定的な見解を述べた。しかしそれがごく表面的なものであり、一応はというレベルの範囲内におさめられていることを、桜田は感じ取っていた。捜査の手順の理不尽をたしなめはしたものの、それを撤回する強権を発動しないのはもちろん、桜田の甘さを根本的に是正しようとするには力のない言葉が並んだ。佐藤は所轄でありとあらゆる事件に対応してきた、たたき上げの刑事だ。力で押し切るよりも理詰めで納得させるタイプだとはいえ、他の刑事をこっぴどく叱り倒す様子を目の当たりにしたこともある桜田にとって、自分に対する態度には物足りなささえ感じていた。佐藤は常に、自分に対して一定の距離を置いている。桜田にはそう思えるのだ。
佐藤は何かを恐れている。それは桜田が倉科に近づくことの延長線上に起こり得る現象に対するものなのではないか。
そう考えた途端、こめかみが重く脈打った。
あれこれと思考を巡らせる余裕がないのは、桜田にとって好都合だった。この事件に関わるようになってからというもの、自分が以前のように動くことも考えることもできなくなっているような気がしてならない。これまで思いもしなかったことを疑い、疑っていたことの深度がどんどん増していく。気づかなければ何事もなくやり過ごせていたはずのことにまで疑いを差し挟んでしう。それが際限もなく新たな疑いを招き、すべてを否定的に勘ぐってしまうようになる。つい先刻には、捜査本部の佐藤警視の態度に疑念を抱いたばかりだ。時間的な余裕を手に入れてしまえば、すぐにでも疑念に凝り固まった自分が露呈してしまう。
事件をとりまく人間たちの相関図が頭から離れない。事件そのもののあらましは次第に見えてきた。しかし、実はそうでないところに今の自分の関心が集中していることに、桜田もまた後ろ暗さや道義的な責任を超えた恐怖を覚えている。
倉科は何者なのか。そして、自分は誰なのか。
倉科に接するようになってからというもの、もう何年も前に決別したはずの、原因不明の頭痛が再び自分を苦しめ始めた。これほどあからさまに体が発するサインを見逃すほど、桜田は馬鹿ではない。
もともと抱えていたものとはいえ、こめかみに錐を刺し込まれるような頭痛を感じたのは久しぶりのことだ。かつてもう二度と健康な自分には戻れないのではないかと危惧する原因となった頭痛が寛解した。寛解に至る一連の流れの中に、八鍬をはじめとした医師たちの存在があった。それが再び頭をもたげ始めたのはあの時からだ。
倉科との出会いを皮切りに、頭痛が頻度を増し、程度を深めている。この事実を、桜田は倉科に結びつけて考えざるを得ない。倉科に会うたびに、倉科のことを考えるたびに頭痛に見舞われる。倉科の存在に自分の心と体がまともに影響を受けている事実を、これ以上看過するわけにはいかない。
彼は何者なのか。そして、自分は誰なのか。
『永遠の花嫁』第五章「終雪」B3
『永遠の花嫁』