『永遠の花嫁』第三章「八朔の雪」B8

『永遠の花嫁』

「川村椿の場合も、その例え話の子どものような状態だったんですか?」
「はい。自分を消す能力を身につけていたという点では同じでした」
「ここではいつぐらいから話すことができるようになったのでしょう?」
「ちょっと待ってくださいね」藤本はカルテに視線を落とした。「ええと、三度目の受診の際に、『イチゴ』と話してくれました。好きな食べ物の話をしたんです。いきなり本題に入ることは避けて」
「その後は本題に入れたんですか?」
「いえいえ。道のりは険しかったですよ。週一回、火曜日の夕方に来るようにしましたが、当たり前の言葉のやりとりができるようになるまでに半年かかりました」
 抱え込んだ言葉をここに来て洪水のように放出させる患者も少なくない。しかし椿は、話してはいけないんじゃないかという葛藤を長い間抱えているように藤本には見えた。
「それは、誰かを守るために?」
 例え話の少年の場合には、虐待する側の父親という存在があった。虐待されている子どもの立場からすれば、親の置かれている状況が悪化するようなことを他人に話してもいいものかどうか、躊躇するに違いない。椿も同じような感情を抱いていたのではないだろうか。
「それが大きいと思います」
 椿が経験してきたことは、言葉にするのが困難なほど辛いものだった。その経験を強要したのは、社会的にとても高い地位にある人間だということだけは話してくれた。その分、相手を守らなければ問題が大きくなってしまうのではないかという葛藤があったことは否定できない。藤本は当の椿を診断した結果からの推測を話してくれた。
「先生がおっしゃる川村椿の経験とは、虐待、あるいは暴力ですね?」
 倉科がそう言った。
 藤本から得られる情報の引き出し役として、自分こそが主導権を握らなければならない。桜田はそう考えて言葉をつないできた。しかし、この一言で倉科こそがこの場にふさわしい聞き手であることが明白となった。
「はい。川村椿さんは、何者かに非常に激しい虐待を加えられていたはずです。それも継続的に」
 桜田は息を呑んだ。
「虐待とは、どんな?」
 今こそ強くならなければならない、桜田は自分にそう言い聞かせた。
「性的なものです」
 一瞬、目の前が暗くなった。桜田のその闇の中に、妹の凄惨な姿が甦った。

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