「ゴリラは椿さんの腕を掴んで彼女を引きずり、彼女自身のベッドまで運びました」
背中を丸めて痛みに耐えている椿の両手を準備していたロープでベッドの手すりに縛りつけ、自由を奪ったうえで身に着けていたものを乱暴にはぎとっていった。椿がもがくと、また腹部を殴打した。顔には手を出さなかったことが、かえってその残虐性を表している。誰にも気づかれないように、長期間にわたって痛ぶり続けることを前提とした、残忍なやり口だ。椿自身、ゴリラのなかに思いやりやいたわりどころか心そのものがないことにあらためて恐怖を感じたと言っている。
「暴力に晒された状況でなら当然のことかもしれませんが、心がないという印象はどこから来たのでしょうか?」
「それは目、です」
「目、ですか?」
倉科は自分の目を指し示した。
「はい、その目です。まるでガラス玉のようだったと」
「それはどういう?」意味なのかと、倉科は問いたかった。藤本は十分にその意を汲んだ返答を寄越した。
「まるで感情が見えなかったということでした。自分に暴力をふるい続ける男の感情が喜怒哀楽のどこにあるのか、無機的なその目からはまったく読み取れなかったと」
「そのガラス玉のような目は、椿にどんな感情を抱かせたのでしょうか?」
「ゴリラの暴力に晒されるたび、彼女は死を覚悟したそうです」
倉科の背中に震えが走った。心的な寒さに震えながら、藤本の言葉を待った。
「椿さんの話を聞きながら、私はサイコパスに関する心理学的な成果を想起しました」
他者の、恐怖や悲しみの姿を目の当たりにしたとき、サイコパスと呼ばれる気質をもつ人間たちは、概してその心境を察する能力に欠けている。目の前の相手の恐怖や悲しみを読み取ることができないから、さらなる恐怖や悲しみを相手に加えても心が動かされない。自分自身の欲望のままに相手に苦痛を与え続けることができるのは、まさにこのためだ。
「それからゴリラという呼称の由来についても」
サイコパスをめぐる調査の一つに、顔の縦と横の長さを比較するという方法がある。この結果として、顔に占める横幅の比率が大きい男性ほどサイコパスの傾向ないし反社会的性向が高いという結果が出るという。
「この二つの性向を持っているのだとしたら、ゴリラにはサイコパス的な気質が色濃く反映されていた可能性が考えられます」
藤本は溜息をついた。
「だからこそ長期間に渡って椿さんに苦痛を与え続けても恥じ入ることがなかった」
藤本の言葉が終ろうかという刹那、倉科の視界の端に何かが動いた。隣に座る桜田の体が、座っていた椅子から頽れた。倉科はその崩壊を追ってすぐさま床に膝をつき、桜田の肩に手をかけた。心配していた事態が目の前に起こり始めている事実を、信じたくはなかった。
「どうした?」
倉科は髪に覆われた桜田の顔を覗き込んだ。桜田は目をきつく引き結び、何かに耐えていた。咄嗟に口をついて出た言葉が、親しい間柄の人間に対するものになってしまったことを悔やむ暇はなかった。
藤本も心配を隠さずに机をまわって駆け寄ると、桜田の前に屈みこんだ。
「少し休んだ方がいい。そこのベッドに横になって」
そう言って差し伸ばされた藤本の手を、桜田は頭からゆっくりと離した右手を使ってやんわりと払い除けた。
「大丈夫。急に目眩がしただけですから」
これ以上このような話題に触れさせては危険だ。倉科は自分のなかに起こった声に従おうとした。
『永遠の花嫁』第四章「牡丹雪」A3
『永遠の花嫁』