『永遠の花嫁』第五章「終雪」B9

『永遠の花嫁』

「そろそろ、ですね」
 押し黙っていた山脇が自分の腕の時計にライトの光を当てながらそう言った。顔を上げた山脇と、振り向いた桜田の視線がぶつかった。暗がりの中にいるためか、あるいは寒さのためか。山脇の顔が青ざめている。唇が紫色に血の気を失っているようにも見える。桜田は笑った。
「唇が」そう言いかけると、山脇は握った拳で口元をおさえた。「やっぱり、緊張しますね」
 桜田は頷いた。山脇の表情がふにゃりと緩む。
「よし、行こう」
 桜田は立ち上がり、歩き出した。山脇がその後に従った。
 外気の冷たさを探るように外に出た。足音を殺して歩き出す。ほどなくして、依子の住む家が間近に迫る。庭に面した硝子戸の向こうの障子は、灯りの色を柔らかく吸い込んで橙色(だいだいいろ)に佇んでいる。今や玄関は目の前だ。
 呼び鈴もブザーもない。桜田は引き戸の桟の一部を叩いた。
「川村さん、こんばんは」
 引き戸に指をかけて一息に引き開けようとしたが、当然のごとく内側からかけられた鍵に阻まれた。
「川村さん、川村さん」
 物音ひとつない。人の動きも感じられない。桜田は後ろにいる山脇と視線を合わせた。そのとき、ようやく中から声がした。
「どちら様ですか?」
 擦りガラスの向こうに淡い光がもれ、縁取りのぼんやりと滲んだ影が引き戸のすぐ向こうに控えている。
 この短い間にも、島崎が家のどこかに身を隠すことはできるはずだ。寒空の下にもかかわらず、背中に嫌な汗が流れているような気がしてならなかった。
「警察です。ここを開けなさい」
 依子の影が擦りガラスから遠退くのが分かる。この一瞬が勝負の分かれ目だと、桜田の経験が叫んでいた。後ろに控えている山脇を見た。そして、互いに頷き合った。時間がない。
「開けなさい。令状があります。開けないのなら強攻策を取ります」
 声を張り上げた。その勢いに吸い寄せられるように、ぐんと、人影が近づいてきた。
「今開けます」
 ガチャガチャと、施錠を解く音が響く。桜田は勢いよく引き戸を開け放った。その勢いを()るようにして敷居をまたいだ。
「川村依子さん。指名手配犯の島崎竜司を捜索するための令状があります」
 あらためてそう言った。視線を廊下の奥に固定したまま、依子の眼の前に令状を掲げた。依子の顔は陶器のように硬く、青白かった。桜田は左手で依子の右手首を強く掴んだ。反射的に、依子が身を強張らせた。彼女と島崎を接触させないため、引き連れて歩く必要がある。驚きはしたものの、依子に抵抗するような素振りは見られなかった。
 桜田は靴を脱いで廊下に上がった。ガンホルダーから右手で銃を抜き、素早く部屋を見て回る。一番手前の部屋、客間には暗闇が広がるばかりだ。次の茶の間には蛍光灯の明かりが灯り、炬燵の天板を鈍く光らせていた。テレビがついている。
 背後を山脇に守らせている。一番奥の部屋を開け放ったのち、玄関に戻りながらもう一度すべての部屋に目を通すつもりでいた。じっくりと島崎竜司の姿を探す段になれば無線で呼びかけ、外で待機している応援部隊の数人を家の中の捜索に回す算段をつけている。
 みしりみしりと床板が鳴く。五感を総動員する。一つひとつの部屋の戸を開け放つ。そこに人影がないことを確認しながら、ゆっくりと廊下を進む。そしてとうとう、一番奥の部屋の前に立った。そこだけ、空気の質が明らかに異なっていることに桜田は気がついた。

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