◆
玄関のドアの前に立ち、桜田は呼び鈴を押した。家の中で電子音が響いている。ドアの横にあるスピーカーに電気が走り、プッと小さな音を立てた。
白馬から帰ったならすぐにH町に戻るべきだ。それは分かっている。しかし、桜田は倉科のもとを訪ねた。
「はい」
いつか電話で聞いた、倉科の妻の声に間違いない。
「桜田と申します」
肩書を省いて姓だけを伝えた。少し間を置いて、ドアの擦りガラスの向こうに人影が動いた。それに続いて鍵を解く音がした。開かれた扉の向こうに、倉科の妻が立っていた。
彼女を目の前にしたその刹那、桜田の脳裏に光が走った。目の前に真っ直ぐに立つ女の全体的な印象などという曖昧なものではない。ましてや細部になど思い至るはずもない。もっと、何かもっと大きな光の塊が、桜田の体を瞬間的にすり抜けた。
この女に、どこかで会ったことがある。
桜田の脳裏に走った光に名前をつけるとしたら、それは既視感と呼ぶべきものだ。私は、この女を知っている。もう一度そう思ったとき、目の前の女が口を開いた。
「いつか、お会いできると思っていました」
この場を一刻も早く離れなければならない。桜田の中で誰かがそう叫んでいるような気がした。しかし、もう一人の自分がいつか会えると思っていたというこの女の言葉の意味を知りたがっている。
「さあ、どうぞ」
桜田は倉科の妻に促されるまま、家の中に入った。既視感。やはりそうだ、既視感だ。
過去にもこうしてこの女と接したことがある。そうでなければこんな感覚に囚われるはずはない。倉科に初めて会ったときにも同じ感覚に襲われた。今まで身に覚えのなかった感覚を、よりによって夫婦の両者に対して抱くなどという事実を、偶然という言葉で片付けてよいものかどうか。
倉科の妻に促されるまま、桜田はリビングのソファに腰を掛けた。瞬間的に問いを発する自分を止めることができなかった。
「以前どこかでお会いしたことはありませんか?」
仕事がら身についてしまった習性と言えるのだろう。そう問いを発した瞬間から、桜田は観察者になる。女は微笑んだまま顔を固定した。しかし、微笑んではいるのに楽しそうではなく、思い遣りや労りや、その表情からおよそ微笑みに相応しい意味を読み取ることはできなかった。その顔はむしろ、感情が否定されたまま住む場所を失っているかのように見えた。
「ありません。今日、初めて、お会いしました」
揺るぎない確信に満ちていながら、噛んで含めたようなその物言いに、桜田はむしろ倉科の妻の側に慣れがあるように思えた。相手に自分の方が間違っているのだと思わせる技術や、真実を悟らせない強さが備わっている。
「そうですか。どうも引っかかったものですから」
倉科家のリビングは決して無機質なものではなかった。倉科はその存在自体に、どこか冷たさを感じさせる。彼が住む家そのものにも似たような雰囲気が宿っているものだと勝手に想像していた桜田は、その違いにかえって『幸せ』を見た。
倉科はリビングで桜田を待っていた。妻は席を外した。
『永遠の花嫁』第五章「終雪」B4
『永遠の花嫁』