『永遠の花嫁』第五章「終雪」B14

『永遠の花嫁』

 なぜ倉科が、零がここに?
 最初の攻撃をかわされた島崎は、倉科の体を通り越してすぐに向き直った。そして素早く態勢を整えると、再びナイフを突き出した。
 桜田は我が目を疑った。
 凶刃が自らの体を目指して襲い来るその刹那、倉科は足を小さく前に踏み出したのだ。
 どんなに場数を踏んでいる刑事でさえ、刃物を持った相手が攻撃を仕掛けてきたのであれば、それをかわすために体を退くのが普通だ。ある程度の訓練や実戦によって鍛えられているような場合であっても、鋭く光を放つナイフを目の前にすれば、恐怖心から相手との距離を取ってしまうものなのだ。
 倉科は凶刃を前にして至極冷静に(たい)をさばき、態勢を少しも崩すことなく相手を自分の懐のなかで処理した。それだけで、倉科が並大抵の経験値では手に入れることが出来ないような、格闘の技術の持ち主であることが分かる。以前目にした倉科の拳を思い出した。打撃に特化しているかに見えたその拳は、合気をも覚えている。さらに重ねられた倉科の行動が、桜田の予想を確信に変えた。
 倉科は島崎の右手に自分の右手の甲をあて、ナイフの軌道をずらした。その一瞬の後、島崎の手首を捉えた。そしてほんの少しだけ倉科が体を地面に沈みこませたと思いきや、島崎の体がぐるりと輪を描いて消えた。島崎竜司は、空中でその体を一回転させられた後、地面にたたきつけられたのだ。
 桜田の心に、深く、大きな亀裂が走った。
 脳に流れ込んでいた血液が瞬時に蒸発してしまったかのように、すべての感覚が失われた。そして次の瞬間、空になった血管に冷たく、けれども新たな血が注ぎ込まれたような閃きを見た。自分のなかに永く堅く閉ざされていた扉が開かれ、隠し持っていた、あるいは隠され続けていた記憶が、泉のようにこんこんと湧き上がるのが分かる。あとからあとから湧き上がってくる記憶の欠片(かけら)が、湧き出したその端から自分の心にも体にもざくざくと突き刺さるのが分かる。自分のなかのあらゆる部分が新しい部品に置き換えられていく光景が、目をつむりさえすれば瞼の裏に見えるようだ。
 そこに、自分の体から流れ出す血の記憶があった。右脇腹に割れたワインの瓶が刺さり、その部分の筋肉を削ぎ取っていた。激しい痛みと、あとからあとから()()なく流れ出す血液に気が遠のく。自分が流した血によって作られた海のなかに、自らの体がどさりと(くずお)れたのが分かる。そこには、観客として妹の現実を見守っている自分の姿はなかった。混濁した精神の狭間で、生と死の淵を彷徨っている、物語の主人公としての自分の姿があった。
 今なら、この場面に臨む自分が体を自由に動かすことができない理由が分かる。倉科が目の前で放つ圧倒的な暴力を引き金に、死の恐怖に絶望したかつての自分が蘇りつつある。その恐怖こそが、桜田の足をすくませている。
 現在の自分、この桜田(しゅう)が、現実味を帯びない、虚構に満ちた存在であることに気がついてしまった。それはこの一連の事件に関わってきたなかで、倉科と接触することで予感し続けてきたことだ。その思いが膨張を続け、今や抗い難い事実として自分という人間の根底に根差してしまっている。
 体が覚えていたはずの自動車事故。妹の存在そのもの。家族と過ごしてきた時間。そのすべてが意図的に、周到に刷り込まれた、偽りの記憶だという事実に気づかされた。
 自分は一体誰なのか。
 桜田周として生きていたことに対する違和感は、決して幻想などではなかった。桜田円としての本来の自分が、頭痛という現象を伴って表に出たがっていたのだ。

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