匂いがした。
それは病院の、あるいは消毒薬の匂いであり、桜田も過去に嗅いだ記憶のある、そう、死体の匂いだった。手を尽くしているのかもしれない。しかし、明らかにその匂いが漂っていた。
その密度がこの部屋の周囲に濃いのは、決して思い過ごしなどではない。反射的に左手で鼻を押さえようとしたが、依子の右手首を掴んでいるために自由にはならなかった。桜田はいったん依子から手を離した。右手に銃を持ったまま、自由になった左手で一気に襖を開いた。暗がりの中、廊下の明かりが淡く伸びた先に、少しだけ膨らんだ布団が見える。枕元には洗面器やタオルや、小さく光を放つ機械が置かれている。桜田はその部屋に吸い込まれるように、最初の一歩を踏み入れようと足を持ち上げた。
「待って。ここには簡単に入らないで。私は逃げも隠れもしない。まずは元の目的を果たして。ここはあとでゆっくり調べればいい」
依子ははっきりとした口調でそう言った。およそ恐怖や焦燥といった負の感情とは無縁の態度を目の前にして、桜田は自分の胸の内に何か黒いものが込み上げてくるのを感じた。
一切の余裕がない、この場面に適した言葉とはとても言えない。しかし、桜田は自分を止めることができなかった。
「あなたは、堀内恵一の子を産もうとした。どうしてそんなことを?」
桜田は、自分の唇から出た言葉が震えていることに気がついた。
「どうして?」依子が顔を上げた。その視線には強い力が込められていた。「人を好きになるのに、理由なんかいるの?」
「人を好きになること自体はあなたの自由だけど、すでにあなたの実の姉の真理亜と結ばれていた堀内恵一を、わざわざ横取りする必要などなかった。あなたは、あなたにふさわしい人を探せばそれでよかった」
依子の顔に歪んだ笑みが貼りついた。
「二人は入籍していたわけでもない。事実婚の状態だった。あの人は、恵一は、自分の意思で私を選んだ。私が無理に誘ったわけじゃない。真理亜との関係の後に私のところに来たのであれば、結局は私を選んだっていうことよ。いったん東京に出たのだって、椿が生まれたから。椿を育てる責任があったから。子どもがいたか、いなかったか。真理亜と私との差はそれだけ。恵一が東京での生活を捨ててこの土地に帰ってきたのだって、本当は私と一緒にいたかったから。そう考えるのが当然でしょ?」
感情を高ぶらせ、声を荒げてくれた方がよほど諭しやすかった。赤々と燃える熱い鉄の方が形を変えやすい。しかし依子を覆っていたのは恵一に対する熱情ではなく、冷静な思い込みとしか言えないものだった。歪んだ形のまま冷たく固まった鉄を打ち直すのは、容易なことではない。
そこには他者の力によって今の生活を押し付けられた川村依子ではなく、自分の人生を自分の手で選ぼうとした、剥き出しの、一人の女の姿があった。
「真理亜とのたった一つの差を埋めるために、あなたは堀内恵一との間に子どもをもとうとした。よりによって真理亜が椿を身ごもったと知った時。弘前市内のS産婦人科に、妊娠三か月まであなたが通院していた記録が残されていた。その後、長野の叔母、里見千代のもとに半年間身を寄せて」
「愛している男の子どもを身ごもることが罪になるの? あなたにとやかく言われる筋合いはないでしょ?」桜田はその問いに対する答えを逃げた。自分が確認したいと思っていたことにのみ、会話を収束させたかった。「あなたは?」依子の声はなおも桜田を追いかけようとする。「あなたは女として、いえ、人間として、誰かに必要とされたいと思ったことはないの? 愛されたいと思うのが悪いことだって言えるの?」
「そんなこと、考えないでも生きてはいける」
『永遠の花嫁』第五章「終雪」B10
『永遠の花嫁』