『永遠の花嫁』第三章「八朔の雪」A3

『永遠の花嫁』

 案の定というべきか、入学後間もなく、達樹は事件を起こした。いや、事件に巻き込まれたと言った方が事実に近いだろう。中学時代に達樹と対立していた生徒が、他校に入学後、仲間を集めて達樹を岩木川にかかる橋の下に呼び出した。達樹は相手が多勢なのを知っていたにもかかわらず、一人でその場に向かった。そこで一方的な暴行を受けた。
 近隣の住民が異変に気がついて警察に通報したときには、もう事は済んでいた。立ち上がれないほどの傷を負ってはいたものの、達樹の意識ははっきりとしていた。例えば人間をバットで殴るような場合、相手を殺すか再起不能にするつもりであれば、振り下ろしたバットの勢いを衰えさせることはない。しかしある程度以上の怪我を負わせて思い知らせるという段階までのことであれば、話は別だ。両手で振り下ろしたバットの勢いを上手く殺す必要がある。達樹に危害を加えた少年たちは、ある意味で暴力としては適切な程度をわきまえていたことになる。要は達樹が中学までのような立場を維持する意志をもたないことを確認し、その上で過去の因縁を清算するに値する手段を取ったということだ。だからこそ達樹の怪我は回復可能な程度に留められ、その一方で、少年たちの世界にトップ交代の十分な印象を与えるレベルに達していた。達樹の怪我の程度を目の当たりにした瞬間、倉科にはこの事件を取り巻く少年たちの思いや彼らの狭い社会に与える影響を推し量ることができた。
 達樹は駆けつけた救急車によって病院に搬送された。怪我の処置を終えて警察官による事情聴取が始められることが期待されたが、まずは保護者に連絡を入れなければならない。警官が達樹に訊ねたところ、親はいないと答えた。『いない』というのは存在しないという意味か、それとも連絡を入れて欲しくないということかを警官が問うと、後者であるとの答えが返ってきた。それでは誰か引き取り手はいないかと訊ねると、短い逡巡の後、倉科の名が小さくつぶやかれたという。そんな経緯の後に学校に電話があったのは、夜八時を少し回った頃だった。
 教師になったばかりでまだまだ日々の仕事のこなし方が分からなかった倉科は、次の日の授業のために学校で教材研究をしていた。警察からの連絡を受け、病院の名前と所在地を訊き、荷物をすべて学校に置いたまま駆け出した。車に乗って白い可憐な花を咲かせたりんご畑の間を走った。宵闇の中、車のライトによって白く小さく浮かび上がったリンゴの花々が、小さな光の粒のように見えた。自分が急いでも、達樹の怪我の状況は何も変わらない。倉科は落ち着いた運転を心がけた。病院の看板がヘッドライトに照らし出された。倉科はハンドルを左に切った。駐車スペースに車を停めた。受付で達樹の病室を訊ねた。三〇二号室という返答を得て、階段を上がった。
 ノックをして病室のドアを開いた。ベッドのかたわらに警察官の背中が見えた。その背中に視線が遮られ、達樹の顔は見えなかった。倉科が病室に入ると、警官は椅子を立った。
「倉科先生ですか?」
「はい」
「本人の希望で先生に来ていただきましたが、一戸君は未成年です。いずれにしても保護者に今回のことを知っておいてもらわなければなりません」
「分かりました。私から事の次第を伝えておきます」
 警官は頷いた。
「一戸君には明日にでもまた話を聞くことになります。複数の高校の生徒から暴行を受けながら、本人は手を出さなかったそうですよ」
 警官は手にもっていた制帽をかぶり、帽子のつばを押さえるだけの礼をした。そして踵を返し、病室をあとにした。倉科はその背中を見送った。

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