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家の近くの道端で、蟻がモンシロチョウの羽を運んでいた。自分の体の何倍もある大きな白い羽を、蟻はえっちらおっちらと運んでゆく。その動きに合わせて揺れる羽は、日光を反射してひらひらと輝いていた。その光景に、幼い達樹はまじまじと見入った。達樹は日中を少し過ぎた日の光を真正面から受けてしゃがんでいた。ちりちりと肌が灼けていくのが分かる。それでも、日の光を小さな背に負おうとは思わなかった。自分の体がつくる影の中に蟻とチョウの羽を入れてしまえば、真っ白に輝くそれをつまらないものにしてしまう。達樹は次々と溢れ出す汗を拭うのも忘れ、痺れ始めた足を少しずつ後ろに運びながら蟻のために道を空けた。顎を伝って結ばれた汗の雫が蟻と羽にあたらないように気をつけた。
不意に、達樹の目の前を影が覆った。見上げると、近所に住む主婦が立っていた。逆光に潰されて細かな造形が分からない。幼い達樹にとって、それは単なる巨大な影でしかなかった。
「たっちゃん、独りで遊んでるの?」
そう訊かれたような気がした。達樹は黙って頷いた。影は一瞬、背後を確認するように体を傾けた。そしてもう一度、達樹に体を向けた。
「本当の父っちゃと母っちゃがどこの誰だか分からないような子は、誰も相手にしてくれねんだね」
幼い達樹にも、そこに明らかな悪意が込められているのが分かった。
まだ、生みの親の不在を知らなかった。ひどい暴力を伴うものの両親の愛情に守られながら生きてきたはずの自分が、どうしてそんなことを言われなければならないのか。その言葉の意味をうまく理解することができなかった。達樹は頭に熱い血が駆け上るのを感じた。それと同時に、守ってくれる人がそばにいなければ、自分は剥き出しの弱者であることを思い知らされた。
達樹は立ち上がった。知らないうちに拳を握り締めていた。目尻が吊り上がるのが自分でも分かる。達樹は真っ直ぐに目の前の影を睨んだ。
「おお怖い。何か悪いこと言ったかね」
影はわざとらしく後退った。そうしながらも、二つの目だけが白く鋭い光を放っていた。達樹は記憶の中のその目に、何度も名前をつけようとした。憎しみ、哀れみ、蔑み、嫌悪、優越。弱き者を見る他人の目に名前をつけることで、自分の中での居場所を定め、飼い慣らしてしまいたかった。しかし、そうすることがうまく出来なかった。
ふと、達樹の横に人の気配が湧き上がった。振り仰ぐと、眩しいまでに陽光を反射する真っ白なワンピースを身に纏った女性が立っていた。達樹の足元にあったはずの蝶の白い羽をそのまま身に着けたのではないかと思えるほど、彼女は命に溢れているように見えた。すぐ向かいの家に住む女性がそこにいた。母親よりも若く、姉と呼ぶには少し年上だろうか。女性はしゃがみこんで達樹と視線を合わせてくれる。達樹は、ふうわりと甘い空気が自分の体を包み込むのを感じた。
「この人に何か言われたの?」
にわかに自分の行為に恥じ入ったのか、主婦はそそくさとその場を去った。達樹はその背中を憎悪の中で見送った。女性はそんな達樹の肩を抱いた。
「大丈夫。達樹君は一人じゃないから。だから、そんな顔しないで」
女性の言葉に、どれほどの安堵を得たか分からない。自分の体の中で、怒りの塊が溶かされていくのをありありと感じた。
達樹はふと気がついて足元を見た。いつの間にか蟻はいなくなっていた。一瞬、体が硬直するのが自分でも分かる。恐る恐る右足を上げると、そこに白く美しいものがぼろぼろと崩れていた。
達樹は自分の中にある何か大切なものが壊れてしまったことを感じた。その一方で、新たな自分を作り直さなければならないと強く思った。堪えていたはずの熱い涙が頬を伝った。まぶたをきつく引き結んだことによって押し出された涙は、幼い達樹の頬に焼けつくような熱を刻み込んだ。
「一緒に帰ろう」
女性は達樹の手を取り、つと立ち上がった。そして二人は歩き出した。
「そんとき、何でかな。もう泣かないって、決めたんだ」
達樹の腫れ上がった唇が、笑ったように歪んだ。包帯で隠されていない顎の線に、まだ少年らしい膨らみが残されている。過去にどんな反社会的な行動があったにせよ、非行歴にまみれているにせよ、まだ子どもなのだ。倉科は椅子から立ち上がって薄手の掛け布団の端を掴んだ。それを達樹の首もとまで引き上げて掛け直した。
「もう、今日は休め。何も考えないで、ゆっくり。俺はずっとここにいるから」
達樹は小さく頷き、まぶたを閉じた。
「いつか、こんな毎日から抜け出せる日が来るのかな?」
「来るさ。お前さえ、そう望めば。守らなくちゃならないものができれば」
「先生には?」
「今は家族が」
いつの間にか雨が降っていた。窓の外、通りを行く車がアスファルトを蹴る音に、水がまとわりついていた。
「先生、今日話した俺や俺の家のことは、聞かなかったことにしておいて欲しい。先生はそんなことないだろうけど、そういう目で見られるのが一番嫌なんだ」
「分かった。お前を可哀想な奴だなんて扱いは絶対にしない。誰かがお前の過去を話しても、初めて聞くような振りをする。それでいいか?」
どんなに些細なことでも、自分がしてもらいたいと願ったことを誠実に実行してくれる相手がいることは励みになる。それは倉科自身が感じてきたことだ。達樹を相手にその役割を与えられたことが、倉科自身を強めた。達樹は顔に巻かれた包帯の下で、少しだけ笑って見せた。
『永遠の花嫁』第三章「八朔の雪」A5
『永遠の花嫁』