『永遠の花嫁』第三章「八朔の雪」B7

『永遠の花嫁』

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 翌日、藤本メンタルクリニックで川村椿の足跡をたどろうとする倉科の行動を掴むことができたのは、まさに尾行の賜物だ。しかし、桜田はなお釈然としない。
 倉科が、川村椿の足跡をたどる理由を明らかにしない。だからこそ、桜田にはこの事件の概要が見えてこない。
 何度も見上げた待合室の時計の針が、間もなく一時を指す。最後の患者が診察室を出た。その背中を見送ってすぐ、藤本医師が待合室に姿を現した。
「どうぞこちらに」
 桜田は倉科とともにソファを立ち、藤本の後に従って診察室に入った。
 藤本は手元の資料を開いた。紙ずれの音が異様に高く響く。
「川村椿。初診は二〇〇五年の夏です。川村さんの名前が本人のイメージ通りだったのを覚えています」
「椿という?」
「はい。病態が深刻だったことも手伝って、彼女に関する記憶はとてもはっきりしています。先ほど名前を聞いたときにも、すぐにピンときました」
「彼女一人で?」
「初回は入所している施設の方と一緒でした。もちろん、その方には待合室にいてもらいましたが」
「川村椿の様子はどうでしたか?」
「話したくてもうまく言葉にすることができないというか、何をどう話していいのか分からないといった様子でした」
「そういう様子は、何を意味しているとお考えですか?」
「恐らく抱えているものが大きいのだろうと感じました。当時の私はすでにそれなりの経験を積んでいましたが、助けてあげられるかなと、正直なところ不安になりました」
「それはどんな?」
 藤本は手元のグラスを持ち上げると、水を少しだけ口に含んだ。痩せた首筋に唐突に埋め込まれたような喉仏が大きく上下した。その動きは、桜田に線路の切り替えを行うポイントを思わせた。
「私に話さなければ何も変わらないことが分かっているので、話したいとは思う。でも、話す言葉を探しているうちに過去の事実に向き合わなければならなくなる」
「そのハードルが高かった?」
「はい。その事実は、直視するにはあまりにも過酷で、途中で踏み込むことを回避してしまう。そんな状況なのだと思いました」
「そういった現象は、どんな理由から起こるものなのでしょうか?」
「例えば、父親から恒常的な暴力を受けている子どもがいたとします。子どもは暴力を受け続けることがあまりにも苦痛で、そこから逃げ出したくなる」
「しかし、逃げ出すことなどできない」
「その通りです。父親の支配下にある身体はその場所から離れることができない。そんなとき、精神だけを消してしまう能力を身につけることがあります」
「精神を消すとは?」
「父親からの暴力を受けているのが自分ではなく、誰か別の子どもだと感じるように、精神を別な場所に移動させると言ったらいいのかもしれません」
 達樹は肉体ごと、自らの意思で父親の呪縛から逃れることができた。しかし椿は、そううまく立ち回ることができなかった。

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