『永遠の花嫁』第四章「牡丹雪」A10

小説

 花庵に入所した当初、椿の精神状態は決して安定したものではなかった。精神がいくつにも分断される解離性同一性障害を呈していたとも考えられる。また、自分の身を守る方法のひとつとして性化行動をとる可能性もあった。しかし、三年の歳月を経て椿の病状は少しずつ快方に向かっていたのではないか。その安定を作ったのが花庵での生活であり、藤本医師のクリニックでの診察であり、山本と名乗った達樹の功績だった。それならば、花庵を出た後の椿を守るためには、椿の行方を誰にも知られないことが最も重要だ。だからこそ達樹は、倉科に椿の行き先を知らせないまま、必要が生じた場合の庇護を依頼したのだ。
 椿は、タヌキとゴリラがそれぞれに抱えるスキャンダル、あるいはそれ以外の望まれない出来事の証人として機能しうる。そんな椿の所在を知る唯一の存在が達樹であったのなら、口を割らせるための脅しを各方面から繰り返し受けていた可能性がある。そのため、いつ死を覚悟しなければならない場面に遭遇するか分からなくなっていた。そのまま自分が死ぬことになれば、椿を静かに見守ることができる人間がいなくなる。
 親はもちろん、肉親の一人すらいない。あるいは信頼できない。達樹と椿はそんな状況下に生きてきた。そんな二人を共通して知っている人間はたった一人、自分しかいない。倉科はそのことを、いまさらながら強く自覚した。
 聖書。
『一戸ノート』に、まるでそれそのものが独立した記号のように書かれたページを、倉科は思い出していた。
『聖書』とは何か。倉科の手元には、施設で椿が使っていた『聖書』が残されている。おそらくこのことだろうとの予測はつく。それ以外に何らかの鍵を握ると思えるようなものが存在しているとすれば、達樹個人が所有していたものがあり得る。まずはその存在を確認することが必要だ。そうか。椿と達樹の『聖書』。そのどちらかに、あるいは両方に、何らかの形で椿の居所が記されているのだろう。ゴリラは椿の味を忘れられずにいた。いつかまた、自らの手で自由にもてあそびたいと願っていた。しかし、彼女の居場所が花庵であることが分かっていながら、手を出すことができなかった。そこには政治力であり経済力であり、暴力であり信仰の力が働いていたからだ。篤志家がもつ力と自分の力のバランスを崩すことができない以上、ゴリラは自らの欲望にブレーキをかけ続けることしかできなかった。そして高校の卒業式を終えた椿は、忽然と姿を消した。篤志家の力を借り、達樹が事を成した。そのことによって身の危険に晒された達樹は、自分の身に何かが起こった際、椿を見守る役割を誰かに託そうとした。その役割を担うことは倉科にしかできない。達樹はそう判断した。達樹は、やがて倉科が椿を探し始めるように仕向けた。『一戸ノート』を使って。
 幸いにも、倉科が椿の使っていた『聖書』を手にした事実を、桜田は知らない。施設を訪ねたことを知っているからと言って、高橋が明らかにしない限り『聖書』の存在になど気がつくはずもない。そして高橋は、『聖書』を倉科に預けた事実を桜田には明らかにしないはずだ。椿を守りたいと思うのならば、彼女に関する情報は極力秘すべきだからだ。高橋が倉科と同様の価値観を持っていることは、花庵での会話から明らかだ。
 この状況ならば、自分だけが椿の居所を知る手がかりをもっていることになる。だからこそ急がなければならない。
 やがて倉科は交差点に差しかかった。赤信号に行く手を遮られ、立ち止った。左手に折れれば自宅に向かう道が続く。右手に折れれば、かつてほんの一時期だけ川村真理亜と椿母娘(おやこ)が住んでいたアパートにたどり着く。倉科は右手にのびる道路の先に視線を()せた。もちろん、(くだん)のアパートそのものが見えるわけではない。しかし倉科の頭の中に仕舞われた記憶を総動員すれば、道はつながり曲がり角を折れ、古びたその建物の前に立つことができる。二階の奥の部屋。そこに灯が生まれ、真理亜と椿の姿が影絵となって窓のスクリーンに浮かびあがる。そんな光景が実現できたなら、どんなに素晴らしいことか。

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