『永遠の花嫁』第五章「終雪」B15

『永遠の花嫁』

 そのとき、桜田の目の前の光景に、何かが鈍く軋む音が落ちた。倉科が島崎の肩の関節を外したのだ。低く乾いたその音と、直後に放たれた闇を切り裂くような叫び声が、ようやく保たれていた桜田をそれ以前の何かに変えてしまった。
 マドカ。
 どこかでその名を呼ぶ声がする。
 (まどか)
 自分の全身を覆っていた、目には見えない薄い膜がするりと滑り落ちた。私はかつて、円と呼ばれていた。自分に問うように、あるいは言い聞かせるように、桜田はあえてその名を口にした。
 円と周。
 二人は双子の姉妹などではない。かつては円という名を背負い、今は周という名によって生かされている、どちらもこの私自身だ。心ばかりでなく体の記憶までもが止め処なくあふれだすのを、もうどうすることもできない。胸が張り裂けるように熱い。頭の内側からこめかみを突き破らんばかりに痛みが暴れ出す。頭痛に押し出されるように、眠っていた記憶がさらに蘇る。
 他人の犠牲を目の当たりにしてきた日々。そしてとうとう、その日がやって来た。自分の血が肉が骨が、いつしか黒い影となって我が身を覆った。クスリのせいか、不思議と痛みは感じなかった。ただ、円という名の自分の体が傷つけられ、血を流し、肉を割かれ、あろうことか骨が空気に晒された時、感じていたものはやはり痛みではない。胸を押し潰すような、絶対的な孤独だった。私が悪いんじゃない。私を捨てた親が悪い。顔さえ知らぬ親の姿を思い描き、憎もうとした。そうすることで、おぞましい現実を意識の外に飛ばそうとした。
 両親にいて欲しかったなどという贅沢は言わない。せめて片親だけでも、自分を大切に思ってくれる存在が欲しかった。普通の家庭に育ってさえいれば、孤独を恐れるようなことはなかった。自分の存在を肯定することができるような価値観を育むことができていたなら、他人の敷いたレールの上だけを走るような生き方をせずに済んだはずだ。絶対的な孤独を恐れるばかりに、他人から求められるがままに荒廃した集団に自ら足を踏み入れるような人生を準備されてしまった。これまで自分は何を選んできただろうか? 何も選び取った記憶がない。流されるままここまで来てしまった。しかし生きるためには、選択の余地がない生き方を選択し続けるほかはなかったのだ。瀕死の重傷を負ったあの日、現場に駆け付けて桜田を救い出してくれたのは倉科だった。血の海の中に全裸で倒れ、死を待つしかなかった自分を引き上げてくれたのは倉科だ。彼の手のぬくもりを、今ならありありと思い出すことができる。桜田周として新たな人生を生きていた自分を、辛い記憶しか持たない円に引き戻したのもまた、今、目の前で、島崎の肉体を壊し続ける倉科の手だ。
 その手が、地面に這いつくばる男の腕を取っている。そしてその腕をあらぬ方向に曲げたかと思うと、獣の叫びが周囲の闇を切り裂かんばかりに放たれた。
 もうたくさんだ。十分だ。私はもう、周ではいられない。
 自分の体を支配していた力が抜け落ちていくのが分かる。その場に桜田を留めていた得体の知れない力が、バターのように溶け落ちていく。桜田周ではない。桜田円に戻った自分が、倉科の黒い影を見つめながら雑木林の闇の中に溶け込んでいる。手なずけていたはずの悪魔が蘇った。
 桜田円は、右手で(スミス)(アンド)(ウェッソン)モデル37エアウェイトのグリップを握りしめた。そしてゆっくりと撃鉄を下ろし、握り直した。引鉄(ひきがね)に当てたのは右手の人差指ではない。親指だ。銃口は顎の下、自分に向いている。さらに左手で、グリップを持つ右手ごと強く握りしめた。両手で胸元に銃を抱いた。
「さようなら」

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