『永遠の花嫁』第五章「終雪」B17

『永遠の花嫁』

 零。
 その名を呼んだ。お願い、目を開けて、零。そう叫んだ。止め処なくあふれ来る涙に、その顔さえ歪んで見える。一刻を争う。桜田にはそのことが分かっている。
 この男を死なせるわけにはいかない。
 ただただ、その一念だけが円の体を突き動かした。円は地面に横たわる男の右腕を肩に背負うようにしながら、自分の背中を男の胸に潜り込ませた。完全に脱力した人間の体は重い。しかし、何とかしなければならない。この男を死なせるわけにはいかない。
 男の重さによろめきながらも、円は一歩一歩を踏みしめるように進んだ。そこに、複数の足音が近づいてくる。円と零の姿を見つけ、駆け寄ってくる。私たちはいいから、島崎を確保して。涙で歪んでいたのは視界だけではなく、声も同じだった。ためらいながらも、二人の刑事は円と零のもとを離れ、島崎の確保に向かった。島崎の姿を見失っていた、さらに二人の刑事が目の前の暗闇から姿を現した。撃たれた人員の現状把握と介助を。そう指示して、もと来た道に帰した。
 なぜだろう。なぜこうも胸が温かいのか。涙が止まらないのに、なぜ口元に笑みをたたえてしまうのか。丸めた背中に男の体を負いながら、円は少しだけ視線を上げた。そこには夜の闇が深々と口を開けていた。右の耳もとに零の口がある。円が歩みを進めるたび、そこから短く浅い息が漏れる。その吐息が温かく円の耳を湿らせた。
 何?
 消える。零の(ともしび)が、消える。円はがつがつと足元で割れる(かた)(ゆき)の上に、零の体を再び横たえた。自分はその横にしゃがみこんだ。そしてまた、その口元に耳を寄せる。
 あかねと、りく……、たまきを……む。
 分かった。分かったから、もう何も言わなくていい。
 (むせ)ぶ零の口から、赤い、赤い血がほとばしり出る。円は咄嗟に、自分の口で零の口をふさいだ。そして零の口のなかに湧き出す血潮を自分の口で受け止め、外に吐き出した。半ば氷と化した足元の堅雪が、見る間に赤く染め上げられていく。ふと、頬に雪の欠片が舞い降りた。見上げた夜空を雪が斑に彩っている。おそらく、これがこの冬最後の雪となるだろう。桜田は倉科の体を前に、そんなことを考えた。そして、再び倉科の口を吸った。繰り返し血の味を感じながら、円はただ、零の命だけを祈った。

タイトルとURLをコピーしました