『永遠の花嫁』第五章「終雪」A13

『永遠の花嫁』

 フロントガラスの向こうに桜田の姿が見えている間に、倉科は車をバックさせた。誰のものとも知れない家の庭を拝借して車を方向転換させると、ルームミラーで後方を確認した。その小さな鏡の中に、桜田の姿はすでになかった。
 国道に出るまで、県道は緩い上り坂だった。アクセルを踏む足が逡巡している。もうすぐ国道に出る。左にハンドルを切れば家路につくことになる。
 右にハンドルを切れば。
 その選択肢が自分の中に生きていること自体が倉科には不思議だった。倉科は頭ではなく体に訊いてみる。自分の体を、自分自身を信じた。
 次の瞬間、腕がハンドルを右に切っていた。そして右足が、アクセルを踏んでいた。
 車は自宅とは反対方向の、秋田方面へと向かう車線に乗った。JR奥羽本線の跨線橋に差し掛かる手前で、倉科は右手に伸びる脇道に車を入れた。少し前のめりに停めた車のフロントガラスの向こうに、夜に閉ざされた家々が見渡せる。等間隔で配置された街灯が、夜の中に光の点を結んでいる。暗闇にまだ目が慣れていないせいで今は見えない。しかし、倉科の視界の真ん中にその場所があることは間違いがない。目を凝らしてその空間を観察する前に、倉科は上着のポケットから携帯電話を取り出した。登録されているなかから目的の番号を選び、押した。数回の呼び出し音の後、環が電話口に出た。
「はい」
「少し、遅くなる」
 短く間が開いた。
「今しかないものね」
 そうなることがおそらく分かっていたのだろう。環の声には倉科の背中を押す明るさがあった。
 以前、環に発した『償い』という言葉が、今度は倉科の耳に聞こえたような気がした。
「すまない」
 環が、本当は不安と闘っていることが倉科には分かる。しかし、今は事の成り行きを見守っていたい。
「くれぐれも、気をつけて」
 環の言葉に頷き、倉科は電話を切った。そして、車を降りた。土の匂いを含んで少しだけぬるんだ風が、柔らかく吹きつけてくる。夜の闇のなか、倉科は草の上に立った。見上げると、星のまたたきが増えている。今や光の欠片(かけら)が落ちてきそうなほどだ。視界を前方に向けなおすと、見たかったはずの物の輪郭がくっきりと区別できる。倉科は腕の時計に視線を落とした。蛍光塗料によって緑色に淡く光る短針と長針が、九時を指していた。あと二時間。風の中、倉科はその場に立ち続けた。光も音も、すべてを逃がさないために。その徒然が、倉科を過去へと引き戻そうとする。
 もう何年も前のことになる、毎日こんなことばかりしていた。
 今では他人の過去のように思い出すことが出来る。あの頃、見えないはずの過去に目をつむることに必死で、見たいはずの未来に夢を馳せる力まではもてなかった。ただその瞬間瞬間を生きていることで精いっぱいだった。泣いていても笑っていても、それらすべてが演技だった。生きることは演技を続けることだった。
 だめだ。
 倉科はまぶたをきつく引き結ぶ。そこに、あらん限りの力を込める。やがてその力をゆっくりと緩め、目を開いた。辺りには見慣れた夜の闇が広がっている。
 再び、腕の時計に視線を落とす。十時四十五分を回っている。いよいよか。倉科は闇の向こうの一画に目を凝らした。そこから桜田の姿が見えるはずもない。だが、その表情も息遣いも想像することができる。手に取るように分かる。桜田のことはよく知っている。
 桜田は、作られた自分を必死に生きている。

タイトルとURLをコピーしました