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三月十日、土曜日。藤本のクリニックをあとにしたのは、夕方の四時少し前だった。
空はわずかに青を残し、風はさらりと乾いている。胸が押し潰されるような重苦しい話に気がふさいでいてさえ、肌に触れる風が心地いい。その感覚が皮膚だけでなく体の中にまで少しずつ行きわたっていくことを願いつつ、倉科は街の空気を深く吸い込んだ。
中央本線に揺られて東京駅に着いた。大勢の人間達が足早に駅舎に飲み込まれていくのと同時に、吐き出されてくる人々の足取りもまた忙しない。
改札を抜け、エスカレーターを上がって東北新幹線のホームに向かった。階上から、どこか埃の匂いをはらんだ風が吹いてくる。倉科は人工的なその風が、自分の髪をさらさらと弄ぶにまかせた。
ふと後ろを見やると、桜田がまぶたを引き結び、風を避けるために首を傾げている。後ろに束ねた髪がふわふわと揺れている。一人で帰るはずのところに、とんだ土産を持たされたものだ。風のせいで桜田がこちらを直視できずにいることを利用して、倉科は顔をしかめてみる。
倉科と桜田が乗る新幹線は、その長い体をすでにホームに横たえていた。倉科はチケットに印字された指定席を探した。
週末、土曜の夕方だ。家族連れが多い分、車輛内には子どもの声が響いている。
茜と陸は、今頃何をしているだろうか。二人でソファに座り、テレビを見ている姿を思い起こしてみる。早く帰って、二人の身体を抱き上げたい。倉科は腕の内に子どもたちの重さを思い描いた。
通路を挟んで二人が隣り合って座れる座席をようやく見つけた。
「この状況では十分な話ができませんね。仙台を過ぎれば大分空いてくるでしょうから、それからで」
桜田のその言葉から、一連の事件に関する話をしたがっていることが知れる。
「そうですね」
倉科は曖昧な相槌を打った。
ある程度の予想はしていたものの、川村椿の過去の苦しみを垣間見た今、晴れやかな気持ちでいられるはずはない。美しく無垢な体に理不尽な暴力を強要され続けた椿の痛みを想うだけで、倉科は重く沈みこむ感情をうまく持ち上げることができなかった。
しかし、これから新幹線に揺られて青森に帰る三時間半もの間、話し相手がいることには助けられる。桜田とは置かれた立場があまりにもかけ離れてしまったことが言葉を選ばせるが、それでも二人でいるおかげで気がまぎれているのも事実だ。桜田が青森に向かう列車に同乗している事実に対する違和感を最小限度に抑えていられるのは、重荷を共有してくれる相手を欲しがる心理が働いているからかもしれない。
「こういうことはよくあるんですか? 出張というか、突然誰かの後を追って列車に乗り込むようなことが」
混み合う列車の中だ。第三者に聞かれないように、倉科は通路を挟んだ先の、桜田の耳元に口を寄せた。
ごく軽い世間話。倉科は自分の経験上すでに答えが分かっている問いを発しておきながら、桜田がそんなふうに捉えてくれることを望んだ。
「うーん、そうですねえ」桜田は考えを巡らせるように目を泳がせた。視線を倉科にもどすと、「まず、ありません」と答えた。
「では、珍しいことなんですか?」
「珍しいというか、初めてです。こういうケースは」
『永遠の花嫁』第四章「牡丹雪」A6
『永遠の花嫁』