『永遠の花嫁』第五章「終雪」A6

『永遠の花嫁』

「無視か。相変わらず嫌な奴だな。礼儀ってもんがないのか。達樹だったか、あいつもお前にそっくりだった。可愛気がなくて」
 倉科の中で、もつれた糸がふいにほどけた。
 その刹那、意識を飛び越えて体が動き出していた。
 左足を踏み出したときにはもう、八鍬との間の空間が倉科の色に塗り潰されていた。右足でさらに有利な場所を占めることができるように微調整し、右手を伸ばして八鍬の襟首を掴んだ。背後の壁につき飛ばし、そのまま自分の体重を右腕に乗せ、八鍬の体を抑え込んだ。襟を掴んだ右手を絞り込むように手前に引きこみ、気道を確保しながらも八鍬の頸動脈をぴたりと圧迫した。のけぞらせた八鍬の首から上が、見る間に朱に染め上げられていく。倉科の左手は、なおも空いたままだ。八鍬一人を相手にするのなら、右手だけで十分だという理由もある。しかしそれ以上に、複数の相手に対処するための方法として、かつて自分の体に叩き込んだ、言わば習慣だった。倉科にとっては、すべて無意識下の体の流れが結んだ状態だ。
「何を話した? 達樹に、俺の何を話した?」
 体を完全に支配されながらも、せめて気持ちでは負けたくないという八鍬の見え透いた抵抗が、倉科をさらに苛立たせた。
「もう止めろ。落ちるだけだ」
 杉内は八鍬を抑え込む倉科の右腕に自分の手をそえた。その手が冷たい。杉内の中にさえ自分に対する畏れが隠されていることを思い知らせた。倉科は、八鍬の体から右手を離した。壁に沿うように、その体がどさりと崩れ落ちた。
「お前が捨て子で、この部屋に住んでいたってことをだ。事実だろ。何が悪いってんだ」
 ようやく空気にありついた魚のように、八鍬は荒い息の間に途切れがちな言葉を吐いた。
 その時、八鍬の胸から電子音が放たれた。場面を一旦区切るような間が生まれた。八鍬はのろのろと胸のポケットに手を差し入れた。取り出した携帯電話を開く手が激しく震えていた。電話の相手の短い言葉を聞いた後、八鍬は無言で倉科に電話を差し出した。
「面白いニュースがある」倉科が耳に押しあてた八鍬の携帯電話から、かつて同僚だった男の声が聞こえる。「島崎竜司とやり取りしている男の携帯から、発信元が分かった。その結果、奴がもう何年も前から青森に潜伏している可能性が高まった」
「桜田には?」
「もちろん、部外者になって何年も経つお前よりも先に伝えてある。捜査に関わっている人間にはすべて連絡済みだ。田辺康之の遺体があがったことも」
「現場は?」
「都内の山中だ。遺体を見つけさせるためのタレコミがあった」
 死人に口なしだ。倉科は目をつむったまま、天井を仰いだ。
「なぜわざわざ部外者の俺に情報を寄越す?」
「青森に戻るお前になら、桜田を助けてやることができる。それが俺たち、桜田に関わってきた者の望みでもある。お前にしても、桜田に借りを返す機会を待っていたはずだ」
 桜田に関わってきた者たち。彼女に対する償いの必要は、倉科の中にだけ存在するものではなかった。倉科は通話を切りながら、何人もの同僚たちの顔を思い浮かべた。
「羽田まで送ってください」
 目の前に座り込む八鍬を見下ろしながら、倉科は杉内に頼んだ。杉内は頷いた。

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