『永遠の花嫁』第五章「終雪」B12

『永遠の花嫁』

 玄関から二つ目の部屋、蛍光灯に照らされた茶の間の光景が一変していた。硝子の破片が掃き出し窓に面した縁側にきらきらと光っている。そして山脇が、右の太腿を押さえながら部屋の中央に倒れこんでいる。そこに血が流れ、畳を黒く濡らしている。
「いました、島崎竜司です。構わずに追ってください」
 桜田は顔を上げた。部屋の明かりにかろうじて照らし出された庭先で、今まさに闇に消え入らんとする男の背中が見えた。桜田は一旦玄関に戻って靴をはいた。そのまま玄関から出て南に向かって走り出した。庭を突っ切ろうとした次の瞬間、体がずしりと重さを増した。我が身を顧みた桜田は、そこに信じがたい光景を見た。
 白い雪はがりがりと硬く、氷と化していた。その上に身を投げ出し、必死の形相で、桜田の腰に依子がきつくしがみついていた。その事実に驚きながらも、桜田の視線は島崎の背中を追っていた。一瞬でも目を離してしまっては、その姿を二度ととらえることはできなくなるだろう。そんな限りなく確信に近い予感があった。
「離しなさいっ、離せっ」
 桜田は警告した。しかし、依子はなおも追いすがる。わずかな月光を受けて白く輝く依子の顔に、汗が滲んでいる。そこに黒髪が貼りついた。
 一刻を争う。
 この思いにとらわれ、桜田は体をひねって膝の可動域を確保し、右膝で依子の脇腹を蹴り上げた。桜田の膝には確かな手応えが残った。依子の口からは「うっ」と短い呻き声が漏れた。あばらの一本でも折れたかもしれない。依子が雪の庭に倒れこむのを視界の端でとらえながら、桜田は走った。
 再び銃声が起こったとき、桜田は咄嗟に身を小さくした。その弾丸が自らを狙ったものではないことが分かってすぐ、再び走り出した。
 おそらく南面に配した西署の三人の刑事のうちの一人だろう、誰かが茂みのなかにうずくまっているのが分かる。被弾が防弾チョッキに守られた箇所に留まってくれていることを願いながら、桜田は男の傍らにしゃがみこんだ。うつむいた顔を覗きこむと、そこには痛みに深く歪んだ伊藤の顔があった。
「自分で救急車を呼べる? 西署にも応援を」
「…はい…」
 かすれた声が心もとない。しかし伊藤は続けた。
「追ってください」
 逃走するなら南面が最も可能性が高いとの考えは間違ってはいなかった。配置していた三人のうち伊藤が撃たれた。ならば姿が見えないあとの二人は、島崎を追ってすでに林の中に分け入っているはずだ。さらに、後方から足音が迫ってきている。北と西の両面に配置されていたメンバーが、桜田の脇をすり抜けていった。
「お願い、追いついて」
 祈りが、そのまま言葉になった。一戸達樹の殺害を指示した男。直接手を下さないという卑劣な方法を用いて、いくつもの人生をクスリによって狂わせ続けた男。そして悪趣味な性癖を持つ者の欲望を満たすために、川村椿を利用した男。そんな男をこのまま逃がすことなどできない。桜田に先行する五人の刑事が島崎の身柄を拘束している姿を目の当たりにすることを祈りながら、桜田は暗い雑木林の中を走った。
 誤算だった。
 相手の姿が見えるところから身柄を押さえる場合と、潜伏している相手を探し出して捕らえるのとでは、主導権の握り方に雲と泥ほどの差がある。前者の場合には桜田の方に主導権が握られるが、後者の場合には島崎の側にそれがある。結果的にはその差の通り、島崎竜司の暴挙を許してしまった。

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