『永遠の花嫁』第五章「終雪」B13

『永遠の花嫁』

 倉科が語った、『点』。それを守ってさえいれば、陥らないですむはずの誤算だった。桜田は立ち上がった。そして走った。また、闇の中に銃声が響いた。その直後、さらに一人、地面にうずくまる人影を認めた。
「傷は?」
 男は顔じゅうに汗を滴らせながら、浅い息を繰り返すばかりだ。男の右手が腹部を押さえているのを確認する。そこに自分の手のひらを差し入れた桜田は、ぬるりとした温かい血の感触に絶句した。男は、やっとのことで瞼を薄く開き、その隙間から視線を桜田に投げかける。傷の深さに瞳は力を失っていたものの、唇をゆっくりと動かした。それは大丈夫という言葉の形を作るためのものだ。
「行って、行ってください」
 囁きにしかならない声が、桜田の胸を粟立たせる。痛み、悔恨、諦観、けれども希望。男から伝わってくる想いに、桜田の体が熱を帯びてくる。この男の希望を拾って走ることが、自分に与えられた役割なのだと、桜田は理解した。
「そのまま、じっとしていて。先に行く。必ず捕まえる」
 男がぐったりと地面に体を横たえた姿を視界の隅に置き去りにしながら、桜田は走った。

 渇いた破裂音が再び桜田の耳に届いた。四発目の銃声だ。また誰かが撃たれたか。鼓膜がその音に触れた瞬間、きゅっと身が縮む思いに囚われた。しかし、その先に負傷者は見えない。これ以上仲間を傷つけさせたくはない。いまだに姿を確認できていないにもかかわらず、桜田の意志は真っ直ぐに島崎を目指していた。
 月が出ている。
 新月に近く満月には程遠い月齢の明かりでも、暗がりに慣れさえすればかろうじて物が識別できる。
 静寂の中、聞こえるのは自分の足が氷と化した雪を割り、その下に隠された落ち葉を踏みしめる音ばかりだ。そんな状況がそれほど長く続いているわけではないはずなのに、心がどんどん細くなっていく。この方向でいいのか? 島崎はすでに逃げおおせているのではないか? そんな不安ばかりが頭をもたげる。桜田の耳に自分のものではない葉擦の音が微かに届き始めたのは、まさにそんなときだった。
 初めは自分の足が作り出す音かと思ったが、明らかにタイミングがずれている。
 はたと、桜田は足を止めた。目の前にふたつ、黒い影が対峙している。
 方向を見失ったのか、桜田の前を走っていたはずの刑事四人の姿が見えない。目の前に向かい合う二つの影の一方が島崎ならば、その正面に立ちふさがる刑事は四人のうちの誰か。一刻も早く見定めなければならない。
 しかし、体が動かない。つい先刻まで熱に操られるように動き続けていた足が、セメントで固められてしまったかのように動かせない。
 気持ちも体も()いているのに、現実が伴わない。
 自分の体を動かさないものの正体は分かっている。頭ではなく体の記憶。それが桜田の足を凍りつかせている。桜田は目の前の光景に目を凝らした。依子の家との位置関係から、桜田に体の正面を向けているのがおそらく刑事の一人だ。その向かい側に立つ島崎竜司は背中しか見せていない。
 最初に動いたのは島崎だった。一旦小さく身をかがめた。攻撃のための姿勢であることが分かる。その手には銃ではなくナイフが握られていることが、桜田を驚かせた。次の瞬間、島崎は刑事めがけて鋭く一歩を踏み出した。直線的な動きを、刑事は右肩を引いてよけた。その刹那、桜田は息をのんだ。動いたことでわずかな月光を浴びた男の顔が見えた。
 倉科、(れい)
 即座にその男の名が脳裏に浮かんだ。

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