倉科は窓に向かって歩いた。八鍬が運転する車に揺られてようやくこの部屋に着いたのは三十分ほど前だ。窓から差し込む朝日が、倉科を照らす面積をしだいに増していく。窓の桟に両手を衝くと、記憶の中に沈滞して離れていこうとしなかった景色が、目の前に現実の重みをもって広がっていた。
「待つんだろ?」
八鍬がもたらすあのポジフィルムの結果を待つ。杉内の言葉はそのことを意味している。倉科は頷いた。
「下に行かないか?」
杉内が下というのは母屋のことだ。そこには杉内の妻、聡子がいるはずだ。
「いえ、ここで待ちます」
「分かった。何か用があったら声をかけてくれ」
昔からそうだ。杉内は他人に深入りしようとはしない。倉科は、部屋を出ていく杉内の背中に感謝した。
一方、もう一人の杉内はそうはいかない。すべてを自分で把握していなければ気がすまない。倉科に実際的な訓練を施したのは、杉内兄弟の兄の方だ。倉科に指示を与え、用件がすめばすぐに立ち去る。その背中を何度も見送ってきた。今、倉科の目の前で部屋を出て行こうとする杉内伸二の姿に、彼の兄である杉内泰造の背中が重なる。
倉科は足元に散乱する品々を左右にかき分け、窓のすぐ下にスペースを空けた。その場所に腰を下ろし、壁に背中を預けた。この部屋に住んでいた期間は二十五年にもなる。しかし、十代の半ばを過ぎてからは、ここに帰りついた日々はその数分の一にも及ばなかったのではないだろうか。それでもこの場所を懐かしく思い出すのは、ここに帰りつくことが出来る日々が倉科にとって安堵に満ちていたからだ。伸二がいて聡子がいて、そこに自分が帰ってくる。それが命を削った先にようやく許される帰還なのだから、想い入れが強くて当然だ。だからこそ、ここには自分にとって特別な人間を住まわせたかった。重荷を背負ったままではない。明るい光に満ちた未来を歩いていけると思える人間をこそ、この部屋に住まわせたかった。それが一戸達樹だった。
少し眠れる。倉科は畳にごろりと体を投げ出し、そっと目を閉じた。自分の中に、二日間の疲れが澱となってわだかまっている。この疲れを利用すれば、うまく眠りに落ちることができる。
しかし、肌が粟立つ。得体の知れない何かが、倉科の心と体を不快に撫で上げる。自分はまだ、ここでの生活の記憶を整理し切れずにいる。この部屋に住んでいたころの記憶こそが、今、倉科を眠らせてはくれないものの正体だ。
四人が初めて顔を合わせたあのときも、やはり今のように明るい日差しの中にいた。そのためか、出会いの記憶は瞳を射る光のように鮮明だ。倉科のなかに、さらには環と八鍬のなかにも、この記憶が同じように強く生き続けていることを疑う余地はない。ただ一人、桜田の中にだけは残っていないはずのものでもある。
『永遠の花嫁』第五章「終雪」A3
『永遠の花嫁』