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一階にも二階にも、窓に明かりが灯っているのが見える。誰か見知らぬ人間ではなく、自分を待っていてくれている人の光だ。そう思えるだけで、倉科の心は力を得た。
青森空港に着いた時点で環に連絡を入れている。もうすぐ帰宅することを告げると、彼女は食事を温めておくと言った。いつも通り、鍵は自分で持っているものを使って解く。
リビングへと続くガラス戸のノブに手を掛けて押し開いた。人が住むことで生まれる熱が、ふわりと押し寄せて倉科を包み込む。台所に顔を出すと、環が菜箸を手に油鍋の前に立っていた。
「ただいま」
「お帰りなさい。ごめんね、出られなくて。揚げたてを食べさせたくて」
「それが終わったら、ちょっといいかな」
「うん、分かった」
ちらりと振り返って、環が言った。彼女が揚げものを終えるまでの間に、倉科は手を洗った。環がリビングで待っていた。
倉科は両手を広げ、環を自分の胸に迎え入れた。彼女はその中にすっぽりと体をあずけた。その首筋に鼻を押し付けた。環の匂いがする。その中に、今夜は揚げ物の油の匂いが混ざっている。
「色んな匂いがする」
環は倉科の肩口に顔を押し当てて、息を吸った。
いつの頃からか、どちらからともなくこんな短い時間をもつようになった。
「食事がすんだら、いくつか話したいことがある」
一瞬、環の体がこわばったのが分かる。
「大丈夫。この家のことじゃないから」
ほっとしたのだろう。環は再び倉科の胸の中でゆっくりと力を抜いた。
環は料理の手間を惜しまない。今、倉科が箸を伸ばしているキスの天婦羅も、ただ油で揚げるだけの冷凍食品などではない。小さな魚の身に包丁を入れ、丁寧に小骨を抜いて下ごしらえしたものだということを、倉科は知っている。家事はなるべく分担するように気をつけている。食事の準備も、時間さえ許せばなるべく手掛けるようにしている。それでも、環に依存することが圧倒的に多いことが心苦しい。
「子どもたちは?」
「ついさっき、ベッドに入ったところ。茜がね、最近パパと会ってないって言うのよ」
口を尖らせて、不満たらたらにそう言う茜の姿が目に浮かぶようだ。
「確かにそうだね。最近なかなか早く帰れないし、土日も家にいなかったからな。陸は?」
「ブロックに夢中。この前誕生日にもらったのを、設計図を見ては組み立てて、しばらく遊んだと思ったらばらばらにしてまた別なものを組み立てて」
倉科は、環の口から子どもたちの家での様子を聞くのが好きだ。子どもたちの姿を思い浮かべると、何か胸のあたりが温かくなるのを感じる。それに、環の声は優しい。
「茜はそう言うと俺が喜ぶことを知ってるんだろうな」
「ううん、本当にそう思っているのよ。あの子はパパがいないとだめだもの」
「陸は子どもらしいよな。何だかほっとする」
環が話す家族の日常は、倉科に安らぎをもたらしてくれる。
倉科がゆっくりとした食事を終えるころ、環の表情は凪いでいた。この様子なら話しても大丈夫だろう。
「俺の話も聞いてもらいたいんだ。家族には何の心配もない話だから、気楽に聞いてくれればいい」
桜田と山脇が倉科の前に現われてからというもの、川村椿という名の元生徒の足取りが気になり始めた。前回上京した際、彼女が移った先の施設を訪問して当時の様子を聞き知った。今回は精神科医のもとを訪ねて、彼女の抱えていた心の病気について話を聞いた。そして明日、月曜日の夜、ここに桜田が訪ねてくることになっている。倉科は可能な限り丁寧に、これまでの経緯を話した。
環は所々で相槌を打ちながら、倉科の話を黙って聞いていた。そして話を一通り聞き終えると、「それは……」と言葉を濁した。倉科は環が口にしかけた言葉を予測し、引き継いだ。
「そう。償い、なんだと思う」
環は目を伏せた。その姿を、倉科は瞬きもせずに見守った。彼女の中に負の変化が起きないことを祈った。やがて、つと上げたその顔には、ぎこちない笑顔があった。
「話してくれてありがとう。あなたの気が済むようにすればいい。家は、私が守るから」
その瞳に、見る間に涙が溢れ出した。環はエプロンの裾で涙を拭いた。倉科は椅子を立ち、後ろから環の細い肩を両腕で抱いた。その腕に、彼女がそっと手を添えた。その手は温かかった。
「明日、月曜日は学校を休もうと思ってる。一日、家にいる。単純に、疲れた」
達樹の死が桜田によって知らされてからというもの、環は倉科を自由に行動させてくれた。その間中、どれほど大きな不安の中にあったことか。そのことを気遣いながらも、一連の行動を取らずにはいられなかった自分の業が呪わしい。しかし、このことによって改めて気づかされた。環と茜と陸、この家を守ること以上に重いものなど存在しないということに。
倉科は環の肩を後ろから抱きながら、その細い首筋にゆっくりと口づけた。
『永遠の花嫁』第五章「終雪」A7
『永遠の花嫁』
