あれから二年が経った今も、椿と円の行方を気にかける日々は続いている。
授業とその後の部活動の指導を終え、職員室へと向かった。何人かの生徒とすれ違い、それぞれにさよならと挨拶を交した。この時間帯に交わす生徒とのやりとりが最も自然な笑みを自分に作らせることを、倉科は知っている。
夏だ。午後七時を過ぎても、夜はまだ遠い。自分のなかにどこか余裕があるのは、この明るさのせいかもしれない。
途中、自動販売機の前を通りかかった。ジャージのポケットに手を入れて小銭を取り出し、自動販売機に入れた。迷うことなくブラックコーヒーを選択する。取り出し口に落ちた缶に手を伸ばすと、左肩が刺すような痛みを訴えた。
左の鎖骨を粉砕し、その周辺の筋肉をえぐる銃創を受けてから二年と数カ月が経った。今や本来の鎖骨の代わりとなる金属にもそれほどの支障が出なくはなった。しかし、ふとした瞬間に、ふとした動きのなかで激しい痛みに見舞われる事実には、いつまで経っても慣れることがない。それ以上の痛みを回避するために、肩を固定したまま膝を折ることで取り出し口の缶コーヒーを掴んだ。
その瞬間、人差し指の先に何かが触れた。
ごく小さな突起の列。一定の規則に従って並ぶ、ある種の『文字』。
倉科の全身が震えた。
「そうか」
その場にいた生徒たちが、思わず短い声を上げてしまった倉科を盗み見た。しかし倉科は、そんな自分を誤魔化そうとはしなかった。
その夜、指先に触れた小さな『点』が、記憶の断片を細い糸で結び合わせた。そして、『聖書』を新しい視点からもう一度見直す契機を倉科に与えた。もちろん、椿が使っていたものを、だ。
『旧約聖書』の最初から、各ページ全体に広く指先を這わせ続けた。千五百にも及ぶページには至る所に書き込みが施されていたが、どこにもそれ以外の文字を感じることはできなかった。
そして『新約聖書』へと移った。倉科の手の中にある『聖書』に関していえば、『新約聖書』の内容は五百ページに至らない。量からいって『旧約聖書』の四分の一に満たない中に、果たして椿につながる意思が隠されているのかどうか。
『旧約聖書』の初めから、一ページずつをなぞる指先に意識を集中させた。
そしてとうとうそれに触れた。見つけたのだ。
約二千ものページを慎重に撫で上げながら、旧約を経て新約も終わりに差しかかろうとした個所に、倉科はようやくそれを探り当てた。
『あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい』
新約聖書 テモテへの手紙 第一章 四節 十二
東京の施設、花庵の食堂に掲げられていた言葉。これが最終的に彼女の覚悟を決めさせたのかもしれない。はたしてこの聖句に隠れて、わずかだが点に触れた。
こんなところに、椿が隠れていた。初夏の夕陽を背負い、制服姿のまま窓辺に腰を掛けた椿が、ふわりと微笑んだような気がした。
倉科はパソコンに向かった。そして、検索した。六つの点を組み合わせて成り立つ、記号の列が画面に呼び出された。椿の『聖書』を手に取り、その個所を実際に指先で触れてみる。しかし、よほどの訓練を積まなければ、到底読み進められるものではないことをあらためて思い知らされた。本来は視覚に頼らずに読み解くはずのものを、目に見えるようにするための作業が倉科には必要だった。わずかな点の連なりに指先を這わせながら、一方ではその点が作る影を目で確認した。それを別の紙に書き出した。
文字数はそれほど多くはない。メモ用紙に書き抜いた点の一つひとつを、今度はパソコンの画面に表示された対応表に照らし合わせてみる。
e14044 n4146
このアルファベットと数字をあぶり出しただけではまだ足りない。通常ならばさらに、その意味するところのものを推察する作業が必要となるはずだ。しかし、倉科には瞬間的にその答えが分かった。
達樹、俺には簡単すぎる。あまりにも、ありきたりだろう。
花庵の高橋の手を介してこの聖書が倉科にもたらされるように仕組んだのが達樹だと分かっている以上、アルファベットと数字の羅列を聖書の中に織りこむ作業もまた、達樹によって為されたはすだ。隠し事がにべもなく明らかにされ、口角を下げてつくる彼の呆れ顔が目に浮かんだ。
数字の列を先導するかのようにつけられたアルファベットの組み合わせ、「e」と「n」。それを目の当たりにした瞬間、倉科の脳裏に地図が浮かび上がった。地図の上に、「e」を表す経糸と、「n」を示す横糸が交錯する。
椿の覚悟を促し、賛同し、後押しし、あらゆる手だてを尽くして彼女の安息を実現させようとした達樹。彼は、椿の幸せを考え抜いた末にこの場所を選んだ。
『永遠の花嫁』終章「薫風」3
『永遠の花嫁』