58.『村上春樹 雑文集』 村上春樹著 新潮社 2011年1月30日発行

書評

 少し古い話になりますが、2015年12月31日、大晦日のことです。何かにつけ1年を振り返る機会でもあり、次の年への展望を抱くタイミングでもあります。この年は実にさまざまな本と出会いました。ジャンルはもちろんですが、それぞれの本から受けた影響も実に多岐に渡ったように思います。例えば、自分が読んだ本の価値をあくまでも個人的なレベルでランク付けする場合、それ相応のテーマを設ける必要があります。「泣ける恋愛小説」や「新たな事実に開眼させてくれた新書」など、自分なりのテーマにそって1年間の読書を整理するのは楽しい作業です。その中の一つの基準として、「読み終えてしまうのが惜しいと思える作品」をランク付けすることを試みて下さい。この基準は小説やノンフィクションなど、作品のジャンルを超えて自分なりに本の価値を考えることを可能にしてくれます。また、その作品が終盤に向かうにつれ、まだまだ作品世界に浸り続けたいがために読み進めるのが惜しいと思える感覚は、これ以上にない読書の楽しみだと思うのです。私がこの基準で2015年に読んだ本をランク付けするとしたら、上位に挙げられるのが『村上春樹 雑文集』です。
 『村上春樹 雑文集』という書名の通り、実にさまざまな必要に応じて書かれた文章がまとめられています。それが「序文・解説など」から始まり、「音楽について」や「人物について」など、各項目に分けて整理されています。本書の「前書き」には、「雑多な気持ち」の全体像のようなものを感じてもらえれば嬉しいとあります。実際に通読してみると、長いものや短いもの、軽妙なものや重厚なものが、実に色彩豊かに詰め込まれているのが分かります。著者自身が「前書き」のなかで「福袋」と表現していますが、まさに言いあてて妙といったところです。この雑多な感覚が実に面白いのです。長短・緩急・喜怒哀楽。相反する様々な要素が読み手を心地良く揺さぶり、決して飽きさせることがありません。ぐいぐいと読めてしまうのです。しかしその反面、読み進めるにしたがって寂しくもなってきます。楽しく読むことが出来る分だけ、この本が「読み終えてしまうのが惜しいと思える作品」だと気がついてしまうからです。
 どの文章をとっても「なるほどなあ」と思わされるのですが、とりわけ私が感心させられたのが『「壁と卵」―エルサレム賞・受賞のあいさつ』です。ここには、村上春樹の小説家としての苦悩が率直に語られています。エルサレム賞を受けることについて、「受賞を断った方が良い」という忠告を少なからざる人々から受けたというのです。この時期、ガザ地区に対するイスラエルの攻撃によって、千人を超える犠牲者が出ました。しかも、犠牲者の多くが子どもや老人といった非武装の市民でした。この出来事によって、イスラエル政府の姿勢に世界から多くの批判が寄せられていたのです。批判されている側が主催する賞を受けることは、受賞者である村上春樹本人も批判の対象となることにつながるからです。その危険があるにもかかわらず、村上春樹は授賞式に出席するために、イスラエルに向かうことを決意します。「どれほどの逆風が吹いたとしても、(中略)来ないことよりは、来ることを選んだのです。何も見ないよりは、何かを見ることを選んだのです。何も言わずにいるよりは、皆さんに話しかけることを選んだのです」という言葉からは、小説家として生きることを選んだ者の、並々ならぬ決意を読み取ることができます。この使命感の強さ、あるいは人間としての強さそのものが村上春樹という小説家を支えているのだと、改めて感じることが出来ました。「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」という言葉には、なお一層端的に村上春樹の小説家としての強い意志が込められているのを感じずにはいられません。
 最後に、『「壁と卵」―エルサレム賞・受賞のあいさつ』の中の一節を引用します。「国籍や人種や宗教を越えて、我々はみんな一人一人の人間です。システムという強固な壁を前にした、ひとつひとつの卵です。我々にはとても勝ち目はないように見えます。壁はあまりに高く硬く、そして冷ややかです。もし我々に勝ち目のようなものがあるとしたら、それは我々が自らの、そしてお互いの魂のかけがえのなさを信じ、その温かみを寄せ合わせることから生まれてくるものでしかありません」。私に関わって下さる方々との間にお互いの魂のかけがえのなさを信じ合える関係を築くこと。そしてその温かみを寄せ合わせる努力を続けること。この文章を読んでからというもの、これが私の目標のひとつになりました。

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