私の読書にまつわる習慣のひとつに、「繰り返し読み」があります。その名の通り気に入った作品を繰り返し読むというものです。私が勝手に命名しました。以前、同じ『地獄変・偸盗』に収められた「偸盗」について書きましたが、同じ本に収められた短編でありながら二度しか読んだことのない「偸盗」に対して、「地獄変」は数え切れないほど繰り返し読んでいます。他にも同じように繰り返し読んでいる作品はいくつかありますが、宮沢賢治の『春と修羅』と「地獄変」はその回数においてかなり上位に位置しています。どうしてそれほど繰り返し読んでも飽きないのでしょうか。この物語には登場人物である絵師の、「命」を懸けた「選択」の様子が描かれています。この緊迫した「選択」の場面には、何度読んでもぐいぐいと惹きこまれてしまいます。だからこそ飽きることなく、私は何度でもこの物語を読み返してしまいます。初めて「地獄変」を読んだときの、絵師の選択に対する衝撃を今でも忘れられずにいるのです。
人が何かの選択をするうえで最も重大な要素となるものは、「命」です。自分の選択ひとつで誰かの、あるいは自分自身の「命」を取捨することがあるとしたら、それこそ究極の選択といえるのではないでしょうか。「地獄変」には、まさにこの究極の選択を迫られた絵師の姿が描かれています。選択の対象は「屏風絵」か「自分の娘の命」か。業火に包まれた車蓋(やかた)とその中で炎に焼かれる娘の姿、あるいはその光景を目の当たりにし、究極の選択を迫られた絵師に与えられた描写はまさに秀逸です。鬼気迫るという表現がありますが、この言葉がぴたりとあてはまる描写力は他に類を見ないほどです。判断を迫られた絵師が最後に選択するのは何か。物語の行方は、鬼気迫る描写力に支えられた文章を実際に読み進めながら確かめて欲しいと思います。
「芸術至上主義」という言葉があります。岩波書店の『広辞苑』(第三版です。すみません、ちょっと古いですね)によると、『「芸術のための芸術」を原理とし、芸術の絶対的価値を主張する立場』と説明されています。『地獄変・偸盗』の巻末の吉田精一による「解説」には、「地獄変」が『宇治拾遺物語』と『古今著聞集』に記載された、それぞれ極めて短い筋書きだけを記した部分を合わせた物語が骨格となっていることが紹介されています。芥川龍之介はこの骨格の上に登場人物を配し、その一人ひとりに肉付けし血を通わせ、人格を与えることによって物語を躍動感あるものに仕上げています。登場人物たちがその思いや行動を交錯させる背景としての物語には、三人称による客観的な視点が取り入れられています。このことによって、読者に物語の成り行きを自分の眼で追いかけているような感覚を与えることに成功しています。並大抵の才能や努力では、これだけの作品を仕上げることはできないのではないでしょうか。芥川が「芸術至上主義」の立場をとり、生活のすべてを犠牲にしてでも納得のいく作品を仕上げようと尽力したとの指摘はよく目や耳にするところです。この見方が正しいのなら、「地獄変」で究極の選択を迫られる絵師は芥川自身であり、彼自身が小説という名の芸術と自分の命を秤(はかり)にかけている姿を想像することが許されるように思えるのです。前述の「解説」には、「芥川の作家としての、また同時に人間としての、生き方なり、立脚地があった」と書かれています。このことから「解説」を書いた吉田精一もまた、「地獄変」の絵師に芥川の姿を重ね合わせていることがうかがえます。芥川は人間としての日常生活ではなく、小説という芸術を選択した人間だったのです。それが彼にとって「命」を賭けた選択であったことは、その後の彼の人生が証明しています。
57.『地獄変・偸盗』「地獄変」 芥川龍之介著 新潮庫 令和4年6月20日115刷
書評
