玄関の施錠を解くために鍵が入っているはずのポケットに手を入れようとしたが、朝顔の鉢をもっていることに気がついた。
盛りのころを過ぎ、枯れかかった蔓の付け根に種の入った実がいくつもなっている。それを玄関の脇に置き、引き戸を開けるなりただいまと声に出してみた。いつも通り誰の返事もなかった。
ランドセルを背負ったまま手を洗い、うがいをすませる。階段を上がり、ようやくランドセルを下ろした。カーテンと窓を開けると、目の前に赤々と燃える夕日がどかりと座っていた。少し前までは日中の日差しが地面を焼いていた時刻にさえ、涼しい風が吹くようになりはじめていた。ゆらゆらと揺れる太陽の輪郭が海面と接するまでにはまだ距離があるようにも見えるが、実際にはするすると海に引きこまれるかのように沈んでいく。いつのころからか、海に沈む太陽をこの窓から眺めるのが習慣になっていた。
夕日に赤く照らし出された坂道を上がってくる人の影が、黒く長い影を落としはじめている。
繊維工場のある街角のスピーカーから「ほたるのひかり」が流れ出すと、にわかに人の動きがあわただしくなる。もう夕方の五時をまわった証拠だ。
黒い影の一つに、背中を丸め、両手に買い物袋を提げた姿を認めた。その姿に気がついてすぐに部屋を出た。階段を駆け下りて靴を履き、まだ昼の熱を残した道に飛び出した。
坂を駆け下りて祖母のそばに寄った。晴れの日は走って、雨の日は傘をさして、物心ついたころから同じように祖母を迎えるためにこの坂を下りてきた。片方の手元に手を差し出すと、何も言わずに買い物袋の一つを渡された。それを手に、もと来た坂道を二人並んで上がった。
坂の途中から見上げると、夕日と反対側の空にはまだうすい青が残っていた。その先にもくもくと夏の名残の雲が立ち上がっている。強い雨を降らせるこの形の雲を見るのも、今年最後になるのかもしれない。坂を上り切った角にある見慣れた家は、青い空を背にはっきりとした輪郭を結んでいる。
大学を卒業して上京したという父は、この家でどんなふうに過ごしていたのか。今やそのことを示すものは何一つ残されていない。自分も父と同じように、やがてはこの土地を去ることになるのだろうか。ランドセルを背負っている今はこの家にいるしか生きる方法はない。しかし、詰襟を着た自分がこの家にいる景色を思い描くことはできなかった。祖母がいる以上、この土地で生きていく人間は誰かしら必要になる。それまでは朝顔の花が好きだと言っていたあの人を待ちながら、ただだらだらと続くこの坂を上り続けることになるのだろうか。
工場での仕事を終えて帰ってくる祖母にばかり頼ってはならないとの思いから、いつの間にか夕食の支度を手伝うようになっていた。将来的に介護が必要になるのであれば、今のうちから台所仕事に慣れておいた方がいい。自分用のエプロンを身につけ、包丁を手にまな板の前に立った。
この日は味噌汁を作ることになった。具の大根を細切りにし、だし汁のなかにはなして味噌をといた。菜箸をせわしなく動かしていると、強い雨が地面をたたく音が聞こえ始めた。窓の外を見上げると、雨の筋の向こうに赤い夕日がさしている。雨は強いものの、そう長くは続かないのだろう。
「あっ、そうだ」
にわかに思い出し、玄関に走った。雨の勢いに負けて鉢が倒れているのではないか。種を収穫して来年もきれいな花を咲かせたい。そのために朝顔の鉢を軒下に入れなければならない。引き戸の前に立った。
勢いよく開けようとして手を止めた。
擦りガラスの向こうに人影があった。
それはあまりにも記憶のなかの形そのままだった。
坂の街
掌編小説