ちょっとだけ意地悪を

掌編小説

 時世ということもあるが、とお以上も離れた同僚と酒を飲むことはなくなった。
 かつては酒を飲んでこそ話せる事柄もあると思っていた。しかし、日常では話せないような内容をアルコールの勢いを借りて話しても、ろくな結果になるはずがない。この事実に気がついてからは、酒の席そのものが楽しいとは思えなくなっていた。
 その日、公的な意味合いの強い酒宴のあと、かつて同じ部署で働いていた中堅どころから声をかけられたのは、実に珍しいことだった。ちょっと一杯ひっかけていきませんかという誘い文句が気に入ったこともあり、時間を共有することにした。歩く方向をわざわざ変えるよりもこの先の店でと提案したところ、いいですねと同意してくれた。
 地方都市の多くがそうであるように、繁華街は駅前と旧市街地とに分かれている。酒宴が催された駅前のシティホテルの周辺には、比較的新しいバーが点在している。そのうちのひとつに、昼間はカフェとして、夜はバーとして客を迎える店がある。コーヒーを使ったカクテルのメニューが豊富なことを頼みに、二人はそこを目指して歩いた。
 主任。
 かつて部署をともにしていたころの呼び方をそのまま使われても違和感がないのは、二人の関係にそれ以外の言葉が存在しなかったためだ。あなたにとって私は確かに主任でしかないという感覚が先立つのは、決して気持ちの悪いものではなかった。
 今日は主任も参加されるとのことだったので私もと思っていたのですが、一次会では話す機会をもつことができませんでした。もしご迷惑でなければ少しお話したいなと思ってついてきてしまいました。同じ部署にいたときには毎日何かしらの話をしていたのに、関わり方が変わると言葉どころか顔を合わせる機会すら失われてしまいます。毎日数多くの人間と接しているというのに、そのほとんどは道ですれ違う他人と何ら変わりがないほどに浅薄な関係でしかありません。そんななかで少しでも価値観が合う人と話ができるのは、それだけで幸運なことです。
 相手の言葉に、私は同意した。
 時間が早いせいか、店内にはまだ空席があった。四人掛けのテーブルに二人、相手を先に座らせたうえで斜向かいになるように座を占めた。互いに相手に気をつかう必要もなく、メニューのなかからそれぞれに飲みたいものを注文した。
 誰にでもあるだろう。どこかでめぐり会っていながらどうしてもたどり着くことができない思い出の味が。私にとってのそれはアイリッシュコーヒー。四十年も前の高校生のころ、よく通った喫茶店で馴染んだ味だったが、その店が閉じられてからというもの似て否なるものにしか出会えずにいた。試すたびにがっかりすることに慣れてしまい、そのためにつく溜息にさえ、今やあきらめの笑みをたたえてしまうようになっていた。この夜にもメニューのなかにその名を見つけ、性懲りもなく試した。しかし、結果は同じだった。
 相手の目の前には、琥珀色の液体がそそがれたグラスが置かれた。スフィアアイスを半分ほど隠す量のそれは、ゆらめく光を優しく包みこんでいる。
 主任にはとてもたくさんのことを教えてもらってきたのに、お礼が言えていないことにとても大きな違和感をもってきました。今のように少しだけアルコールの力を借りて、それでも慎重に言葉を選ぶことができるほどに冷静でいられる夜に、直接話したいと思っていました。あらためて、ありがとうございました。
 酒の席も悪くないものかもしれないと、久しぶりに思い直すことができた。
 相手は続けた。
 仕事以外にも教えていただいたことがたくさんあります。そのうちのひとつがウイスキーのおいしさです。
 そう言われて記憶を探ってみたのだが、思い当たることがなかった。私が次の言葉を待っていることが伝わったのか、二人でお酒を飲んだことはありませんよと、確認するかのように相手は言った。主任は堅い人ですもんねとも。そして少しだけ笑って見せてくれた。
 覚えていらっしゃいませんか。
 私は首を横に振った。
 出張のお土産として、部署のみんなにこの銘柄の小瓶を買ってきてくれたんです。ご自身が子どものころに泳いだ川の、上流の水で仕込まれたウィスキーなんだと説明してくれました。そのときの主任の顔は、失礼かもしれないですけどまさに子どものようで、エピソードそのものがとても羨ましく感じられたことを覚えています。そんなフィルターがかかってしまったこともあるかもしれませんが、家に帰ってじっくり味わってみて、ウイスキーってこんなにおいしいものだったんだって思えたんです。それ以来、機会があればこれを飲むようにしています。特に気分がいいときには。
 私は渇いている自分を知っていた。過去にもっていたはずの何もかもが、時間とともに涸れかけていることを感じていた。そんな今、目の前の相手が私にほんの少しの水を注いでくれた。人との関りを大切にしようと思って私がやってきたことに、間違いはなかったのだと教えてくれていた。
 相手はグラスのなかにそっと指を差し入れると、指先でスフィアアイスをくるくると回した。からからと涼しげな音が響いた。やがてウィスキーに濡れた指先を私の前に差し出した。そしてゆっくりと、彼女は私のシャツの袖で指先を拭った。
「ちょっとだけ意地悪を」
 そう言いながら。

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