声になったかならなかったのか、それさえ分からない。桜田は、引鉄に置いた親指に力を込めた。
衝撃に、体が弾き飛ばされた。
しかし、それは弾丸が桜田の体を貫いたことによるものではなかった。仮にそうであったなら、感覚も思考もすでに失われていたはずだ。
桜田は、眼前の光景が動くのを、ただ見ていた。それは桜田の理解を越えていた。足元に地面がない。宙に浮いた感覚に包まれた。胸に抱いた両腕ごと、銃が鳩尾に深く押し込まれた。息が止まる。刹那、今度は背中に重い衝撃が広がる。背中から胸に向かって内臓が突き上げられる。一旦はその機能を忘れていたはずの肺が、着地の衝撃で再び空気を吸い上げた。これで、肺は呼吸のために十分な収縮を繰り返すはずだ。しかし、それでも体が動かない。何か分厚く重い塊が、ずしりと覆いかぶさっていることを知る。それは自分の体めがけて跳び込んできた、別の人間の体だった。
可能性は五分五分だったはずだ。
自身の胸に銃を抱いた桜田の手から、それを瞬時に奪い取ることは不可能だ。ならばせめて、五分と五分にまでその命を救う可能性を高めるためにはどうすればいいか。時間があればそう考えることができただろう。しかし、倉科は恐らく何も考えてはいなかったはずだ。考えた時点で「その時」は過ぎていたことだろう。ただ体が動くままに任せた、そうとしか考えられない。その結果、至近距離から放たれた弾丸が桜田の体を逸れた。しかし、その代わりに弾丸は倉科の体を射抜いた。倉科の体が今や自分の体に覆いかぶさり、自由を奪っている事実を桜田は知った。彼の腕が、自分の両肩ごと体をきつく締めあげる。互いの胸が強く押し当てられているために、相手の呼吸が自分のそれと呼応する。右の耳に倉科の頬が密着している。熱い息づかいに紛れた声が、彼の頬の筋肉から直接自分の鼓膜に伝えられる。その声が、今にも消え入りそうなその声が、だけれども必死に、それこそ必死に、精一杯の力を込めて桜田の鼓膜を振るわせようとしている。声にどんなに力を込めようとしてもささやきにしかならない。しかし、叫んでいる。
生きろ。
そう叫んでいる。頼むから生きてくれ。願いは、いつしか祈りに変わる。あの時と同じだ。あらゆる人々の努力によって封印されていたはずの記憶は、今や手に取るように明らかだ。
あのとき、まぶたを閉じさえすればもう二度と苦しまずにすむ世界に行けるはずだった。皮膚が破れ白い骨が外気にさらされ、血の海に埋もれていた。しかし、倉科はあきらめてはいなかった。大丈夫だ、俺が必ず助ける。そう叫んでいた。
そして倉科が、その男の手が、桜田の、円の体を地獄から引き上げた。男は血にまみれた円の体を躊躇なく抱きかかえ、走った。今なら死んでもいい。男の腕に抱えられながら、彼が走ることで生まれた振動の中で、円はそう思った。嬉しいこと、楽しいことなどなかった人生だ。たった一度、この瞬間だけが神に祝福されていた。笑っている。自分でそのことに気がついていた。このまま死んでしまいたい。幸せなまま自分を終わらせたかった。
そして今、再び、この瞬間に、男が、その男の体が、円の命を守った。のしかかったその重さの分だけ、男の存在が現実のものであることを円に知らせていた。強く、強く、男の腕が体の自由を奪い続ける。その力が強ければ強いほど、自分が円として生き続けている事実を思い知らされる。
円は目を閉じた。
瞳の表面を厚く覆っていた涙が、まぶたに押し出されて円のこめかみを伝い落ちた。そこに変化が訪れた。少しずつ少しずつ、空気がもれだすように、円を抱く男の腕から力が抜け始めた。円が自由に体を動かすことができるようになったとき、男の首ががくりと垂れた。円は覆いかぶさっていた男の上半身を持ち上げ、その体を背中から地面に横たえた。心音を確かめるために、今度は円が男の胸に右耳を押しつけた。音が聞こえる。しかしすぐにでも消え入りそうなほど、細く小さい。円は男の胸から顔を上げた。男のシャツが頬に張り付いた。手のひらで頬をおさえると、赤い血に、指先がぬめりと滑った。
『永遠の花嫁』第五章「終雪」B16
『永遠の花嫁』