六月の風は緑色に薫る。
梅雨前線は関東南部で停滞しているものの、その日の朝の天気予報によれば翌日にでも東北南部にまで北上する見通しだ。梅雨をむかえるのは各地ともほぼ例年通りだとも伝えられている。それまでの二、三日は、初夏の乾いた風を楽しむことができるはずだ。この時季、大気中に放散される木々の呼気のせいか、風のなかに薫りとともに緑色が溶けこんでいるように思える。県立図書館からJRの駅へと続くゆるやかな坂道を下りながら、夕暮れの風を胸いっぱいに吸いこんだ。あの夏、その何もかもが壊しまえばいいのにと願っていた。
通い慣れた道に知らないことなどないはずだったが、目の前に右に折れる路地を見つけた。こんなところにと思いながら視線を走らせると、路地を入ってすぐの位置に喫茶店があった。半ば反射的に左腕の時計に目をやった。目的の電車に乗るためには時間がない。次の便に乗ることを考えてみる。母親が作る夕食にありつくためには十分な余裕があった。
店のドアを押し開くと、カウベルがずんぐりと丸い音をたてた。西に面した窓から差しこんだ夕陽に、店のなかの空気が飴色に輝いていた。初老の男性がカウンターのなかからいらっしゃいと声をかけた。その前を通り、客のいない空間を奥まで歩いた。壁を背にしたソファ席に座ってメニューを開いた。
店員がやってきて、水の入ったコップをテーブルの上に置いた。アイスコーヒーを注文しようと思っていたが、なぜか別の名が目に留まった。その場で注文を待っている店員を見上げた。
「アイリッシュコーヒーって?」
店員はもっていた盆を胸の前に抱えた。
「コーヒーにウイスキーが入ってるのよ。そこに生クリームを浮かべるの。ダメよ、高校生でしょ?」
そう切り返されて、思わず相手の顔をまじまじと見つめた。似通ったもの同士は同類の匂いをかぎわけることに長けている。相手を高校生とする見立てに、おそらく間違いはなかっただろう。
「酔っぱらうぐらいアルコールが強いの?」
「個人差はあるでしょうけど、結構ね」
「君は? 飲んだことは?」
「もちろん、あるわよ。だって、お客さんに訊かれたら答えなくちゃならないもの。どんな味かって」
「君だって高校生だろ? 君がよくて俺がダメだなんて、どうなの?」
おそらく反論を飲みこんだのだろう。店員はほかの言葉に置き換えた。
「面倒臭いなあ」
相手がそうつぶやいたのが聞こえた。
発した言葉に対し、我ながら馬鹿だったなと思い返したが、口をついて出た言葉を取り戻せるはずもない。これ以上の余計なやりとりは避けたかった。当初の予定通りアイスコーヒーを注文して、何事もなかったかのようにこの場を収拾したかった。アイスコーヒーと口にしようとした瞬間、店員が言った。
「別にあんたの面倒を見なくちゃいけないわけじゃないから、飲みたきゃ飲めば?」
「じゃあそれで」
半ば言い放つような口調になってしまったのは言うに及ばない。相手はくるりと背中を向け、カウンターの中に消えていった。
やがて運ばれてきたそれを口に含んだ瞬間、自分の何もかもがその味に染まったのを感じた。ふと顔を上げると、店員が静かに見下ろしていた。
「さっきはごめん、言い過ぎた。これ、食べて」
ことりと置かれた皿の上に、黄色いケーキがのっていた。コーヒーの衝撃を静かに飼い慣らしたくて、フォークで切り分けた欠片を口に運んだ。卵焼きのようにふんわりと甘い層を、こくのあるチーズが力強く支えていた。それが少ない経験のなかのどこにも当てはまらない喜びを与えてくれた。口の中から体がほどけていくような、不思議な感覚に浸った。
「大丈夫?」
はたから見ていても、何かしらの変化があったのだろう。店員が心配そうに顔を覗きこんだ。
「俺の方こそ、さっきはごめん。確かに面倒臭いよな」
二人でぎこちなく笑いあった。
県外の大学に進学してから数年後、新しい街でようやく自分を見つけられたような気がしていた。あの年の夏から秋、そして冬と、何度あの店に足を運んだことだろう。そのたびごとに救われてきたのだと、今なら理解することができる。
初夏、久しぶりの帰省の際にその場所に足を運んだ。そこに、あの店はもうなかった。ただ緑色の風が薫るばかりだった。
六月の風は
掌編小説